02後撰和歌集 – 楽しく百人一首

1. 秋の田の仮庵の庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ / 天智天皇

1. 秋の田の仮庵の庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ / 天智天皇

あきのたのかりほのいおのとまをあらみ わがころもではつゆにぬれつつ(てんじてんのう)

(意味)
秋の田の仮小屋の屋根の編み方が粗いので、袖が夜露に濡れ続けている。

(解説)
秋の借り入れは年間で一番大切な行事。農民の辛苦を思いやる天皇の慈悲深さを表すとも言われている。

しかしこの歌は天皇本人ではなく元は農民の歌とも言われている。万葉集の作者不明歌で「秋田刈る仮庵を作り我が居れば 衣手寒く霜そ置きにける」が元の歌。

晩秋のわびしい静寂さを美と捉えた歌。言外に静寂な余情を持っているとして定家はこの歌を「幽玄体」の例としてあげた。

 

(語句)
・かりほ・・仮庵(かりいお)、仮に作った粗末な小屋

・〇〇を~み・・〇〇が~なので。理由。
苫をあらみ⇒苫が粗いので

・衣手(ころもで)・・そで

・つつ・・反復、継続の接続助詞。

 


(作者)38代天智天皇(626-672) 。享年46才。中大兄皇子。「万葉集」を代表する歌人の1人。

父は34代舒明天皇、母は35代皇極(37斉明)天皇。

大化の改新をすすめ中央集権の国家を作った。近江令の制定、戸籍づくり、水時計。

近江神宮は天智天皇が祀られているため「競技かるたの殿堂」となっている。

・『万葉集』天智天皇の歌
香具山(かぐやま)は畝傍(うねび)を愛(を)しと耳梨(みみなし)と相(あひ)あらそひき 神世(かみよ)より かくにあるらし

古昔(いにしへ)も然(しか)にあれこそ うつせみも嬬(つま)をあらそふらしき

(訳:香具山は畝傍山を妻にしようとして耳梨山と争った。神代からそうであった。昔からそうだったからいまでも妻を奪い争っている。)

 

 

10. これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関/蝉丸

10. これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関/蝉丸(せみまる)

これやこの ゆくもかえるも わかれては しるもしらぬも おうさかのせき

(訳)これがあの、東へ行く人も都へ帰る人も、ここで別れ、知っている人も知らない人も出会う逢坂の関なのですね。

(解説)
・「逢坂の関」は山城国(やましろのくに・京都)と近江国(おうみのくに・滋賀)の関所。

・「逢坂の関」は「鈴鹿の関」「不和の関」と並ぶ三関の一つ。歌枕(歌に出てくる地名)によく使われる。


(作者)
蝉丸:琵琶、蝉歌(声を絞って歌う)の名手。

「今昔物語」では59代宇多天皇の皇子、敦実(あつざね)親王に仕えたと言われている。

 

13. 筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる/陽成院

13.筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる/陽成院(ようぜいいん)

つくばねの みねよりおつる みなのがわ こいぞつもりて ふちとなりぬる

(訳)
筑波峯のてっぺんから段々と流れ落ちるみなの川のように、私の恋心も積もって深い淵のようになったよ。

(解説)
・筑波山(つくばさん)(常陸国・ひたちのくに・茨城県)・・男体山(なんたいさん)と女体山(にょたいさん)という二つの峯からなる恋の歌の名所。「西の富士、東の筑波」と言われた。

・みなの川・・筑波山から流れる川。「男女川」とも書く。

・淵・・流れが緩やかになって深くなったところ。

・綏子内親王(すいしないしんのう)に当てて書いた歌。陽成院の后になった。


(作者)
陽成院(ようぜいいん)。57代・陽成天皇(ようぜいてんのう)。56代・清和天皇(せいわてんのう)と藤原高子(二条后・にじょうのきさき)の皇子。

9才で即位したが、叔父の関白・藤原基経(藤原家最初の関白)に17才で退位させられ、光孝天皇(15「きみがため は」)に皇位を譲った。

20「わびぬれば」元良親王(もとよししんのう)の父。

(参考)
「うた恋」1巻

20. わびぬればいまはた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ/元良親王

20. わびぬればいまはた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ/元良親王(もとよししんのう)

わびぬれば いまはたおなじ なにわなる みをつくしても あわんとぞおもう

(訳)逢うことができず辛いので今となってはもうどうなっても同じこと。難波潟にある澪標のように、身を尽くしても逢いたいのです。

(解説)59代宇多上皇の后、京極御息所(きょうごくのみやすどころ)との人目を忍ぶ恋の歌。


(作者)元良親王(もとよししんのう)。57代・陽成院(13「つくばねの」)の第一皇子だが皇位はつげなかった。「いみじき色好み」(プレイボーイ)、「一夜巡りの君」とも呼ばれた。

『大和物語』などに親王の逸話が伝わる。

25. 名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな/三条右大臣

25. 名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな/三条右大臣(さんじょううだいじん)

なにしおわば おうさかやまの さねかずら ひとにしられで くるよしもがな

(訳)その名前を負うなら逢坂山のさねかずらよ。たぐりよせて人に知られずに会えたらいいのに。

(解説)
・「もがな」・・~ならいいのに(願望)

・逢坂山は山城国(京都)と近江国(滋賀)の境界にある山。


(作者)
三条右大臣(さんじょううだいじん)。藤原定方(ふじわらのさだかた)。京都・三条に屋敷があった。和歌や管弦にすぐれ女性に人気があった。

いとこの藤原兼輔(27「みかの原」)とともに、醍醐朝の歌壇のパトロン的存在であり、紀貫之(35「人はいさ」)らを支援した。

 

さねかずら

37. 白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける/文屋朝康

37. 白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける/文屋朝康(ふんやのあさやす)

(読み)しらつゆに かぜのふきしく あきののは つらぬきとめぬ たまぞちりける

(訳)風の吹く秋の野に、白く光る朝露。まるで糸を留めていない真珠が散り乱れているようだ。

(解説)
・「草の上の露」を「玉・真珠」に例えることはよくあったが「風に散る露=玉」を読んでいるところが新鮮。

・露(つゆ)は涙の例えとしても使われるため、「散る」という表現から恋が終わったことを表すのかも。

・「後撰集」の詞書(ことばがき)より。延喜の時代、60代醍醐天皇から求められて作った歌。

 


(作者)
文屋朝康(ふんやのあさやす)。父は文屋康秀22「吹くからに」。多くの歌合わせに参加した。

 

 

39. 浅茅生の小野の篠原忍ぶれど あまりてなどか人の恋しき/参議等

39. 浅茅生の小野の篠原忍ぶれど あまりてなどか人の恋しき/参議等

あさじうのおののしのはらしのぶれど あまりてなどかひとのこいしき(さんぎひとし)

(訳)低い茅(ちがや)(ススキ)が生える、小野の篠原のようにしのんできたけれど、もう抑えきれません。どうしてこんなにあなたが恋しいのでしょう。

(解説)
・「古今集」の「浅茅生の小野の篠原忍ぶとも 人しるらめやいう人なしに(詠み人知らず)」を本歌にしている。

・あまりて・・抑えきれないで


(作者)
参議等(さんぎひとし)。源等(みなもとのひとし)。52代嵯峨天皇のひ孫。

『後撰和歌集』に採録された「東路の佐野の舟橋かけてのみ 思ひわたるを知る人ぞなき」は、本阿弥光悦作『舟橋蒔絵硯箱』の蓋の意匠に取り入れられた。