07千載和歌集 – 楽しく百人一首

55. 滝の音は耐えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ/大納言公任

55. 滝の音は耐えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ/大納言公任(だいなごんきんとう)

たきのおとは たえてひさしく なりぬれど なこそながれて なおきこえけれ

(訳)滝の音は長い年月の間に枯れて聞こえなくなったけれど、名高い評判は今も伝わっているよ。

(解説)
・大覚寺(嵐山)で詠まれた歌。200年前は嵯峨天皇の離宮だった。今は「名古曽滝跡(なこそのたきあと)」の碑が立っている。


(作者)
大納言公任(だいなごんきんとう)。藤原公任として「大鏡」にも出てくる。和歌、漢詩、管弦に優れた「三船の才(さんせんのさい)」と称された。

「和漢朗詠集」や「拾遺集」をまとめた。藤原定頼64「朝ぼらけ」は息子。

 

64. 朝ぼらけ宇治の川霧絶えだえに あらはれ渡る瀬々の網代木 / 権中納言定頼

64. 朝ぼらけ宇治の川霧絶えだえに あらはれ渡る瀬々の網代木 / 権中納言定頼

あさぼらけうじのかわぎりたえだえに あらわれわたるせぜのあじろぎ(ごんちゅうなごんさだより)

(訳)夜がほのぼのと明けてきて宇治川にかかった霧が途切れてくると現れてきたのは川の浅瀬にある網代木だった。

(解説)
・あじろぎ・・魚をとるしかけ

・平安時代には数少ない叙景歌。


(作者)
権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)。藤原定頼。和歌や書道、管弦が上手だった。父は大納言公任(55「滝の音は」)。小式部内侍をからかったが、60「大江山」で返された。

67. 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ/周防内侍

67. 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ/周防内侍(すおうのないし)

(読み)はるのよの ゆめばかりなる たまくらに かいなくたたん なこそおしけれ

(訳)春の夜の夢のように短く儚い間でも、いたずらな気持ちで腕枕を借りたら、つまらない噂が立つでしょう。それはくやしいではないですか。

(解説)
・「枕がほしい」と言ったら藤原忠家が「どうぞ」と手を差し出した。この冗談に優雅に返した歌。


(作者)周防内侍(すおうのないし)。平仲子(たいらのちゅうし)。後冷泉天皇、白河天皇、堀河天皇、に内侍として仕えた。

74. 憂かりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを/源俊頼朝臣

74. 憂かりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを/源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)

(読み)うかりける ひとをはつせの やまおろしよ はげしかれとは いのらぬものを

(訳)つれなかったあの人が振り向いてくれるようにと観音様にお祈りしたのに、初瀬の山おろしよ、お前のように辛くあたれとは祈らなかったのに。

(解説)
・奈良・初瀬の長谷寺は恋の願いが叶うと有名。十一面観音がある。

 


(作者)源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)。源経信(つねのぶ)(71「夕されば」)の息子。俊恵法師(85「夜もすがら」)の父。

音楽の才能があり白河上皇の命で「金葉和歌集」をまとめた。

「新風(しんぷう)」と呼ばれたその歌風は、藤原俊成しゅんぜい(83「よのなかよ」)にも受け継がれた。

曾禰好忠(そねのよしただ)の46「ゆらのとを」を本歌取りして、好忠へのリスペクトを表明した。

 

75. ちぎりおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり/藤原基俊

75. ちぎりおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり/藤原基俊(ふじわらのもととし)

ちぎりおきし させもがつゆを いのちにて あわれことしの あきもいぬめり

(訳)あなたが約束してくださった恵みの露のようなはかない言葉を命のように大切にしていたのに、ああ今年の秋もむなしく過ぎていくようです。

(解説)
・興福寺で行われる「維摩講(ゆいまこう)」の講師(こうじ)に自分の息子が選ばれるよう76藤原忠道に頼んだが果たされなかった。

・恋の歌のようにも詠めるのがおもしろいところ。


(作者)藤原基俊(ふじわらのもととし)。藤原道長のひ孫。

 

 

80. ながからむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ/待賢門院堀河

80. ながからむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ/待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)

(読み)ながからん こころもしらず くろかみの みだれてけさは ものをこそおもえ

(訳)末長く愛し続けようというあなたの気持ちが本当か分からず、お別れした今朝は、黒髪が乱れるように心が乱れて、もの思いに沈んでいます。

(解説)
・「後朝(きぬぎぬ)の歌」に対する返歌。

・ながからむ・・末永く愛し続けようという。


(作者)待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)。待賢門院璋子に仕え、堀河(ほりかわ)と呼ばれた。

※待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)は、鳥羽天皇の皇后で、崇徳院、後白河上皇の母。

 

81. ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただありあけの月ぞ残れる/後徳大寺左大臣

81. ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただありあけの月ぞ残れる/後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)

ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる

(訳)ホトトギスの鳴いた方を見渡したところ、ただ有明の月が残っているばかりである。

(解説)
・ほととぎすは夏を彩る代表。貴族たちは夏を告げるほととぎすの第一声「初声(はつね)」を待ち望んで夜を明かした。

・万葉集ではホトトギスは橘の花と一緒に詠まれることが多かったが、平安時代は鳴き声を詠まれるようになった。


(作者)後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)。藤原実定(さねさだ)。藤原定家のいとこ。「平家物語」に登場する。和歌や音楽の才能があった。

82. 思ひわびさても命はあるものを 憂きにたへぬは涙なりけり/道因法師

82. 思ひわびさても命はあるものを 憂きにたへぬは涙なりけり/道因法師(どういんほうし)

おもいわび さてもいのちは あるものを うきにたえぬは なみだなりけり

(訳)思い悩んでいてそれでも命はあるのに、辛さにこらえきれないのは涙なのだなあ。

(解説)
・命と涙。自分ではコントロールできない二つを比べて表現している。

65「うらみわび」の歌と、「〜わび」・「あるものを」の部分が共通している。


(作者)道因法師(どういんほうし)。藤原敦頼(あつより)。崇徳院(77「せをはやみ」)に仕えた。

80歳で出家。80代になってからも秀歌ができるよう住吉神社にお参りしたり、90代で歌会にも参加するなど歌道に熱心だった。

83. 世の中よ道こそなけれ思い入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる/皇太后宮太夫俊成

83. 世の中よ道こそなけれ思い入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる/皇太后宮太夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい)

よのなかよ みちこそなけれ おもいいる やまのおくにも しかぞなくなる

(訳)この世の中にはつらさから逃れる道はないものだなあ。思いつめて山に入ったものの、山奥でも鹿が悲しげに鳴いているのだから。

(解説)
・山に入る・・「出家する」の意味もある。しかし山奥(仏の道)に入っても世の中のつらさからは逃れられないと気付いた。


(作者)皇太后宮太夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい)。藤原俊成。(ふじわらのしゅんぜい)。97「来ぬ人を」藤原定家の父。『千載和歌集』の撰者(後白河院の命)。

『古来風体抄(こらいふうていしょう)』(『万葉集』から『千載和歌集』までの秀歌をあげ史的展開を論ずる。歌論。)

平安時代末期、戦乱が激しくなり貴族社会から武家社会へ移り変わろうとしていた。

俊成の友人、佐藤義清(さとうのりきよ)も出家して西行法師(86「嘆けとて」)となったことで、俊成も出家を考えたが自分は歌の道でいこうと決めた。

 

85. 夜もすがらもの思ふころは明けやらで ねやのひまさへつれなかりけり/俊恵法師

85. 夜もすがらもの思ふころは明けやらで ねやのひまさへつれなかりけり/俊恵法師(しゅんえほうし)

よもすがら ものおもうころは あけやらで ねやのひまさえ つれなかりけり

(訳)一晩中思い悩んでいるこの頃は、夜もなかなか明けきらないで、寝室の板戸の隙間までもが冷淡に思えるのですよ。

(解説)
・夜もすがら・・一晩中

・女性になりきって詠っている。


(作者)俊恵法師(しゅんえほうし)。歌人で文学者。東大寺の僧になった。「方丈記」鴨長明の師。 74「うかりける」源俊頼(としより)の息子。歌林苑(かりんえん)という和歌のサロンなどを開く。