09新勅撰和歌集 – 百人一首note

93. 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも / 鎌倉右大臣

93. 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも / 鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)

(読み)よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのおぶねの つなでかなしも

(訳)世の中がずっと変わらないでいてほしい。海辺近くで漁師の小さな船の引き綱を引いている姿は、しみじみといとおしく感じられるなあ。

・常にもがもな・・変わらないでいてほしい

・あま・・漁師

・かなし・・しみじみとする


(作者)鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)。源実朝(みなもとのさねとも)。12才で鎌倉幕府3代将軍となる。父源頼朝、母北条政子、兄源頼家。

歌人。藤原定家が和歌を教える。歌集『金塊和歌集』を残す。28才で甥の公卿に暗殺される。

96. 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり / 入道前太政大臣

96. 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり / 入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)

(読み)はなさそう あらしのにわの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり

(訳)桜が咲き散るように誘う山嵐が吹いている庭にいて、ふりゆくものといえば雪なのではなく、老いていく私の身なのだ。

(解説)
・落花に自らの老いを重ねて嘆く

・雪ならで・・雪ではなくて

・「ふりゆく」は「降りゆく」と「古りゆく」との掛詞


(作者)入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)。藤原公経(ふじわらのきんつね)、西園寺公経(さいおんじきんつね)。藤原定家の妻の弟。

西園寺公経の妻は源頼朝の姪だったため、承久の乱(1221)では鎌倉幕府に味方した。乱の後、関東申次(かんとうもうしつぎ)の役職に付いた。以後世襲となる。

また公経は、孫の藤原頼経(三寅)を鎌倉4代将軍(摂家将軍)にしたことで、朝廷でも重んじられた。孫娘を後嵯峨天皇の中宮に。

 

97. 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ / 権中納言定家

97. 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ / 権中納言定家(ごんちゅうなごんていか)

(読み)こぬひとを まつほのうらの ゆうなぎに やくやもしおの みもこがれつつ

(訳)来ないひとを待つ私は、松帆の浦(淡路島の北端)の夕なぎのときに焼いている藻塩のように、身も焦がれるほどに恋しているのですよ。

(解説)
・いつまでも待っている女性の心。わが身が恋いこがれる意に、藻塩が焼けこげる意を掛けている。

・万葉集からの本歌取の歌。

・「まつ」は「松帆の浦」と「待つ」の掛詞。

・「焼く」「藻塩」「こがれ」は縁語。

・「まつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の」までが「こがれ」を導き出す序詞(じょことば)。


(作者)権中納言定家(ごんちゅうなごんていか)。藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)。(1162~1241・享年79)。百人一首の撰者。

『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の撰者。俊成の「幽玄」を深化させ「有心体(うしんたい・妖艶な余情美)」を理想とした。

漢文の日記『明月記』、歌論書『近代秀歌』など。

式子内親王(89「玉のをよ」)に憧れを抱く。

父は皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)(83「世の中よ」)。

 

98. 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける / 従二位家隆

98. 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける / 従二位家隆(じゅにいいえたか)

(読み)かぜそよぐ ならのおがわの ゆうぐれは みそぎぞなつの しるしなりける

(訳)風がそよそよと音を立てて楢の葉に吹きそよぐ、ならの小川の夕暮れは、夏越し(なごし)のみそぎの行事だけが、夏であることのしるしなのだなあ。

(解説)
・「ならの小川」は奈良ではなく、京都の御手洗川(みたらしがわ)のこと。北区の上賀茂(かみがも)神社の境内を流れる。

・「なら」と「楢」の掛詞。

・みそぎ・・年中行事の一つ「水無月ばらえ」。川で身を清め、罪や穢れをはらう。旧暦6月29日(現在の8月7日ごろ)。次の日から秋(立秋)になるので「夏越しのはらえ」とも言う。


(作者)従二位家隆(じゅにいいえたか)。藤原家隆。藤原定家のライバル。定家は「火」、家隆は「水」を詠った。

『新古今集』の撰者のひとり。妻は寂蓮法師(87「むらさめの」)の娘。寂蓮法師は義父にあたる。

家隆は後鳥羽院(99「人も惜し」)が隠岐に流されたあとも文通を続けた。