秋 – 楽しく百人一首

1. 秋の田の仮庵の庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ / 天智天皇

1. 秋の田の仮庵の庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ / 天智天皇

あきのたのかりほのいおのとまをあらみ わがころもではつゆにぬれつつ(てんじてんのう)

(意味)
秋の田の仮小屋の屋根の編み方が粗いので、袖が夜露に濡れ続けている。

(解説)
秋の借り入れは年間で一番大切な行事。農民の辛苦を思いやる天皇の慈悲深さを表すとも言われている。

しかしこの歌は天皇本人ではなく元は農民の歌とも言われている。万葉集の作者不明歌で「秋田刈る仮庵を作り我が居れば 衣手寒く霜そ置きにける」が元の歌。

晩秋のわびしい静寂さを美と捉えた歌。言外に静寂な余情を持っているとして定家はこの歌を「幽玄体」の例としてあげた。

 

(語句)
・かりほ・・仮庵(かりいお)、仮に作った粗末な小屋

・〇〇を~み・・〇〇が~なので。理由。
苫をあらみ⇒苫が粗いので

・衣手(ころもで)・・そで

・つつ・・反復、継続の接続助詞。

 


(作者)38代天智天皇(626-672) 。享年46才。中大兄皇子。「万葉集」を代表する歌人の1人。

父は34代舒明天皇、母は35代皇極(37斉明)天皇。

大化の改新をすすめ中央集権の国家を作った。近江令の制定、戸籍づくり、水時計。

近江神宮は天智天皇が祀られているため「競技かるたの殿堂」となっている。

・『万葉集』天智天皇の歌
香具山(かぐやま)は畝傍(うねび)を愛(を)しと耳梨(みみなし)と相(あひ)あらそひき 神世(かみよ)より かくにあるらし

古昔(いにしへ)も然(しか)にあれこそ うつせみも嬬(つま)をあらそふらしき

(訳:香具山は畝傍山を妻にしようとして耳梨山と争った。神代からそうであった。昔からそうだったからいまでも妻を奪い争っている。)

 

 

5. 奥山にもみじ踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋は悲しき/猿丸大夫

5. 奥山にもみじ踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋は悲しき / 猿丸大夫

(読み)おくやまに もみじふみわけ なくしかの こえきくときぞ あきはかなしき / さるまるだゆう

(訳)奥深い山の中に紅葉を踏み分けやってきて、鹿の鳴き声をきくと秋の悲しさがひとしお身に染みることです。

(解説)
・オスの鹿はメスを求めて「ピー」と鳴く。この鳴き声は秋の季語。

・秋の山の情景(目)と、鹿の鳴き声(耳)があいまって、人恋しさが募る。

・この歌は古今和歌集では詠み人しらずになっている。


(作者)
猿丸大夫(さるまるだゆう・たいふ)。歌人。三十六歌仙の1人。

 

 

17.ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれないに水くくるとは/在原業平朝臣

17.ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれないに水くくるとは/在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)

ちはやぶる かみよもきかず たつたがわ からくれないに みずくくるとは

(訳)神代の昔にも聞いたことがない。竜田川が紅葉を散り流して水を紅葉の絞り染めにしているとは。

(解説)
・昔の恋人の藤原高子(ふじわらのたかいこ)のために屏風を題材に詠んだ歌。

・高子は56代清和天皇の后(二条の后)で、57代陽成天皇の母。


(作者)
在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)。51代平城天皇の孫。阿保親王(あぼしんのう)の皇子。16「立ち別れ」在原行平の弟。六歌仙三十六歌仙の1人。

「伊勢物語」の主人公とされる。情熱的な美男子としても有名。

近衛府(このえふ・官職の一つで皇族や高官の警備)。「在五中将(ざいごのちゅうじょう)」とも呼ばれる。

(参考)
・『応天の門』
・『超訳百人一首 うた恋い。』

 

22. 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ/文屋康秀

22. 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ/文屋康秀(ふんやのやすひで)

ふくからに あきのくさきの しおるれば むべやまかぜを あらしというらん

(訳)
ふきおろすとすぐに秋の草木がしおれてしまうので、なるほどそれで山からの風を荒々しい嵐というのであろうか。

(解説)
・「吹くからに」・・吹くとすぐに

・「むべ」・・なるほど


(作者)
文屋康秀(ふんやのやすひで)。六歌仙三十六歌仙の1人。下級官吏の官人。

三河(愛知県)に赴任する際に小野小町(9「花の色は」)を誘ったと言われる。

37「しらつゆに」の文屋朝康(ふんやのあさやす)の父。

23. 月見ればちぢに物こそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど/大江千里

23. 月見ればちぢに物こそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど/大江千里(おおえのちさと)

つきみれば ちぢにものこそ かなしけれ わがみひとつの あきにはあらねど

(訳)
月を見ればあれこれ物悲しくなってしまうなあ。(白楽天のように)私一人だけの秋ではないのだけれど。

(解説)
・唐の詩人・白楽天の「白氏文集(はくしもんじゅう)」にある漢詩を元に詠まれた。「秋の夜は自分一人のためにだけ長い」

・漢詩を和歌にアレンジして詠むのが得意だった。


(作者)
大江千里(おおえのちさと)。平安初期の漢学者・大江音人(おおえのおとんど)の息子。

在原業平(17)、在原行平(16)の甥っ子。菅原道真(24)と並ぶ漢学者。阿保親王のひ孫。文章博士(もんじょうはかせ)。

 

(参考)
白楽天『白氏文集』の『燕子楼(えんしろう)』という詩。

燕子楼中霜月夜 秋来只為一人長
えんしろうちゅうそうげつのよる、あききたってただひとりのためにながし

燕子楼で長年一人暮らしていた、死亡した国司の愛妓が、月の美しい秋寒の夜に「残されたわたし一人のため、こうも秋の夜は長いのか」と詠んだ。

 

26. 小倉山峰のもみじ葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ/貞信公

26. 小倉山峰のもみじ葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ/貞信公(ていしんこう)

おぐらやま みねのもみじば こころあらば いまひとたびの みゆきまたなん

(訳)小倉山の紅葉よ、もしもののあわれを分かる心があるならば、もう一度天皇の行幸(みゆき)まで散らずに待っていてほしい

(解説)
・小倉山・・京都市右京区嵯峨にあるもみじの名所

・宇多上皇の御幸(みゆき)の際に「息子の醍醐天皇にも見せたい」と言われたのを受けて詠んだ。

・醍醐天皇はこのあと小倉山に行幸された。これ以降、小倉山への天皇の行幸が恒例となり紅葉の名所となった。


(作者)
貞信公(ていしんこう)。藤原忠平(ふじわらのただひら)。藤原基経の三男。温厚な性格。60代醍醐・61代朱雀天皇に仕える。摂政、太政大臣、関白となる。

時平、仲平、忠平の3兄弟は三平(さんひら)と呼ばれ、藤原氏繁栄の基礎を築いた。

 

 

29. 心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花/凡河内躬恒

29. 心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花/凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)

こころあてに おらばやおらん はつしもの おきまどわせる しらぎくのはな

(訳)慎重に折るなら折れるでしょうか。一面に降りた初霜で見分けがつなかくなっている白菊の花が。


(作者)
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)。三十六歌仙の1人。「古今集」の撰者。59代宇多天皇、60代醍醐天皇に仕えた。勅撰集に200首の歌が残る歌人。

32. 山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬもみぢなりけり/春道列樹

32. 山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬもみぢなりけり/春道列樹(はるみちのつらき)

やまがわに かぜのかけたる しがらみは ながれもあえぬ もみじなりけり

(訳)
山あいを流れる川に風がかけた柵(しがらみ)は、流れたくとも流れていけない紅葉だったのだなあ。

(解説)
・山川(やまがわ)・・山あいを流れる小さな川

・京都から比叡山のふもとを通り、近江(滋賀県)に抜ける山道の途中に作った歌。

・上の句が問いで下の句が答えになっている。

・しがらみ(柵)を作ったのは人ではなく風だった、という擬人法が評価された。


(作者)
春道列樹(はるみちのつらき)。歴史を学ぶ文章生だった。この句で有名になった。

37. 白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける/文屋朝康

37. 白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける/文屋朝康(ふんやのあさやす)

(読み)しらつゆに かぜのふきしく あきののは つらぬきとめぬ たまぞちりける

(訳)風の吹く秋の野に、白く光る朝露。まるで糸を留めていない真珠が散り乱れているようだ。

(解説)
・「草の上の露」を「玉・真珠」に例えることはよくあったが「風に散る露=玉」を読んでいるところが新鮮。

・露(つゆ)は涙の例えとしても使われるため、「散る」という表現から恋が終わったことを表すのかも。

・「後撰集」の詞書(ことばがき)より。延喜の時代、60代醍醐天皇から求められて作った歌。

 


(作者)
文屋朝康(ふんやのあさやす)。父は文屋康秀22「吹くからに」。多くの歌合わせに参加した。

 

 

47. 八重むぐら茂れる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり/恵慶法師

47. 八重むぐら茂れる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり/恵慶法師(えぎょうほうし)

やえむぐら しげれるやどの さびしきに ひとこそみえね あきはきにけり

(意味)むぐら(つる草)が生い茂ったさびしい家に人は来ないけれど、秋だけはやってきたなあ。

(解説)
河原左大臣(源融・みなもとのとおる)(14「みちのくの」)の豪華な邸宅「河原院・かわらのいん」(京都六条)に、ひ孫の安保(あんぽう)法師が住んでいた。

ここに友人の恵慶法師が尋ねたときに詠んだ歌。百年が過ぎて、有名だった広い庭園も寂れてしまった。

 


(作者)
恵慶法師(えぎょうほうし)。65代花山天皇(984)の頃の播磨国(兵庫)の国分寺の僧。自然を読むのが得意だった。

平兼盛(40「しのぶれど」)や、源重之(48「風をいたみ」)と親しかった。