桜 – 百人一首note

9. 花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる 眺めせし間に / 小野小町

9. 花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる 眺めせし間に / 小野小町

(読み)はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに / おののこまち

(訳)桜の花の色ははかなく色あせてしまった。長雨が降り続く間に。私の容姿も同じように衰えてしまった。物思いにふけっている間に。


(語句)
・「眺め」と「長雨」が掛詞。

・「(長雨が)ふる」と「(世に)ふる」年月が経つの掛詞。

・いたずらに・・むなしく

・うつりにけりな・・色あせてしまった。「な」は感動の終助詞。


(作者)小野小町。吉子。美女の代名詞。54代 仁明天皇の更衣。在原業平に思いを寄せていたとも言われる。六歌仙三十六歌仙の一人。

 

33. ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ / 紀友則

33. ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ / 紀友則(きのとものり)

(読み)ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しずこころなく はなのちるらん

(訳)日の光が穏やかに差している春の日に、桜の花はどうして落ち着いた心なく急いで散ってしまうのか。

(解説)
・桜の儚さ、世の無常などを詠んだ。

・ひさかたの・・光にかかる枕詞。天、空、月などにかかる。


(作者)紀友則。『古今和歌集』の撰者。三十六歌仙の1人。

紀貫之(35「人はいさ」)のいとこ。『古今和歌集』の完成を前に亡くなった。

 

66. もろともに あはれと思へ 山ざくら 花よりほかに 知る人もなし / 前大僧正行尊

66. もろともに あはれと思へ 山ざくら 花よりほかに 知る人もなし / 前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)

(読み)もろともに あはれとおもえ やまざくら はなよりほかに しるひともなし

(訳)山桜よ、私がお前をしみじみと懐かしく思うように、お前も私を懐かしく思っておくれ。お前のほかに私の心を知る人もいないのだから。

(解説)
・大峰山で修行中に山桜を見つけ詠んだ。山の中にひっそりと咲く山桜に、孤独にたえて修行する自分の姿を重ね合わせた。

大峰山は修験道(しゅげんどう)の霊場として知られる。


(作者)大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)。源基平(もとひら)の子。12才で出家。以後、天台宗・三井寺で厳しい修行を積む。

三条院(68「こころにも」)のひ孫。白河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇(77「せをはやみ」)に僧として仕えた。

 

73. 高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ / 前中納言匡房

73. 高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ / 前中納言匡房(さきのちゅうなごんまさふさ)

(読み)たかさごの おのえのさくら さきにけり とやまのかすみ たたずもあらなん

(訳)高い山の峯(頂き)に桜が咲いた。里山のかすみよ、どうか立たないでおくれ、あの桜が隠れてしまうから。

(解説)
・高砂・・山
・尾の上・・頂上

・内大臣、藤原師通(もろみち)の別荘での宴で詠まれた。

・景色に奥行きを感じるのは、中国の詩や水墨画で見られる表現で、漢学者である大江匡房ならではの作品。


(作者)前中納言匡房(さきのちゅうなごんまさふさ)。大江匡房(おおえのまさふさ)。

漢学者。後三条・白河・堀河3代の天皇に仕えた。『江談抄(ごうだんしょう)』(漢文体の説話集)の作者。

大江匡衡(まさひら)、赤染衛門59「やすらはで」2人のひ孫。

大江広元(ひろもと)の曾祖父にあたる。
広元は鎌倉幕府・源頼朝の側近。公文所(→政所)の別当。
(石ノ森日本史 8巻p133)

 

大江匡衡(まさひら)=赤染衛門





大江匡房(まさふさ)73「たかさごの」





大江広元(ひろもと)源頼朝の側近。公文所(→政所)別当。




毛利元就(もうりもとなり)

 

96. 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり / 入道前太政大臣

96. 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり / 入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)

(読み)はなさそう あらしのにわの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり

(訳)桜が咲き散るように誘う山嵐が吹いている庭にいて、ふりゆくものといえば雪なのではなく、老いていく私の身なのだ。

(解説)
・落花に自らの老いを重ねて嘆く

・雪ならで・・雪ではなくて

・「ふりゆく」は「降りゆく」と「古りゆく」との掛詞


(作者)入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)。藤原公経(ふじわらのきんつね)、西園寺公経(さいおんじきんつね)。藤原定家の妻の弟。

西園寺公経の妻は源頼朝の姪だったため、承久の乱(1221)では鎌倉幕府に味方した。乱の後、関東申次(かんとうもうしつぎ)の役職に付いた。以後世襲となる。

また公経は、孫の藤原頼経(三寅)を鎌倉4代将軍(摂家将軍)にしたことで、朝廷でも重んじられた。孫娘を後嵯峨天皇の中宮に。