百人一首 – ページ 8 – 楽しく百人一首

71. 夕されば門田の稲葉おとづれて 葦のまろやに秋風ぞふく/大納言経信

71. 夕されば門田の稲葉おとづれて 葦のまろやに秋風ぞふく/大納言経信(だいなごんつねのぶ)

(読み)ゆうされば かどたのいなば おつずれて あしのまろやに あきかぜぞふく

(訳)夕方になると門の前に広がる田んぼの稲穂がさわさわと音を立てます。葦ぶきの小屋に秋風が吹いて気持ちのいいことですよ。

(解説)
・夕されば・・夕方になれば

・作者の感情を入れず、自然をありのままに詠んだ歌を「叙景歌」という。


(作者)大納言経信(だいなごんつねのぶ)。源経信。和歌・漢詩・管弦に優れ、藤原公任(55「たきのおとは」)とともに「三船の才(さんせんのさい)」と呼ばれた。

 

 

 

 

72. 音にきく高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ/祐子内親王家紀伊

72. 音にきく高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ/祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)

おとにきく たかしのはまの あだなみは かけじやそでの ぬれもこそすれ

(訳)噂に名高い高師の浜の気まぐれな波のように、浮気者で名高いあなたの言葉は心にかけないように。涙で袖が濡れてしまいますから。

(解説)
・1201年 堀河上皇開催の「艶書合(えんしょあわせ/けそうぶみあわせ)」で詠まれた。

・このとき紀伊は70才。お相手は29才の中納言・藤原俊忠。


(作者)祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)。後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕えた。

 

73. 高砂の尾の上の桜咲きにけり 外山の霞立たずもあらなむ/前中納言匡房

73. 高砂の尾の上の桜咲きにけり 外山の霞立たずもあらなむ/前中納言匡房(さきのちゅうなごんまさふさ)

(読み)たかさごの おのえのさくら さきにけり とやまのかすみ たたずもあらなん

(訳)高い山の峯に桜が咲きました。里山のかすみよ、どうか立たないでおくれ、あの桜が隠れてしまうから。

(解説)
・内大臣、藤原師通(もろみち)の別荘での宴で詠まれた。

・景色に奥行きを感じるのは、中国の詩や水墨画で見られる表現で、漢学者である匡房ならではの作品。


(作者)前中納言匡房(さきのちゅうなごんまさふさ)。大江匡房(おおえのまさふさ)。

漢学者。後三条・白河・堀河3代の天皇に仕えた。『江談抄(ごうだんしょう)』(漢文体の説話集)の作者。

大江匡衡(まさひら)、赤染衛門59「やすらはで」2人のひ孫。

 

大江広元(ひろもと)の曾祖父にあたる。

広元は鎌倉幕府・源頼朝の側近。公文所(→政所)の別当。

(石ノ森日本史 8巻p133)

 

大江匡衡(まさひら)=赤染衛門





大江匡房(まさふさ)73「たかさごの」





大江広元(ひろもと)源頼朝の側近。公文所(→政所)別当。




毛利元就(もうりもとなり)

 

74. 憂かりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを/源俊頼朝臣

74. 憂かりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを/源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)

(読み)うかりける ひとをはつせの やまおろしよ はげしかれとは いのらぬものを

(訳)つれなかったあの人が振り向いてくれるようにと観音様にお祈りしたのに、初瀬の山おろしよ、お前のように辛くあたれとは祈らなかったのに。

(解説)
・奈良・初瀬の長谷寺は恋の願いが叶うと有名。十一面観音がある。

 


(作者)源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)。源経信(つねのぶ)(71「夕されば」)の息子。俊恵法師(85「夜もすがら」)の父。

音楽の才能があり白河上皇の命で「金葉和歌集」をまとめた。

「新風(しんぷう)」と呼ばれたその歌風は、藤原俊成しゅんぜい(83「よのなかよ」)にも受け継がれた。

曾禰好忠(そねのよしただ)の46「ゆらのとを」を本歌取りして、好忠へのリスペクトを表明した。

 

75. ちぎりおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり/藤原基俊

75. ちぎりおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり/藤原基俊(ふじわらのもととし)

ちぎりおきし させもがつゆを いのちにて あわれことしの あきもいぬめり

(訳)あなたが約束してくださった恵みの露のようなはかない言葉を命のように大切にしていたのに、ああ今年の秋もむなしく過ぎていくようです。

(解説)
・興福寺で行われる「維摩講(ゆいまこう)」の講師(こうじ)に自分の息子が選ばれるよう76藤原忠道に頼んだが果たされなかった。

・恋の歌のようにも詠めるのがおもしろいところ。


(作者)藤原基俊(ふじわらのもととし)。藤原道長のひ孫。

 

 

76.わたの原こぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波/法性寺入道前関白太政大臣

76.わたの原こぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波/法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどう さきのかんぱく だいじょうだいじん)

わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもいにまがう おきつしらなみ

(訳)大海原に舟を漕ぎだして辺りを見わたすと、雲と見間違うような沖の白波が立っていることです。

(解説)
・崇徳天皇の歌合わせ。「海上遠望(海の上で遠くを眺める)」というお題。漢詩のようなお題なので、漢詩が得意な忠道にはよかったのだろう。

・「ひさかたの」⇒「雲」にかかる枕詞。「天」をはじめ「光」「空」「月」「雲」「雨」などの言葉にかかる。


(作者)法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどう さきのかんぱく だいじょうだいじん)

藤原忠道(ふじわらのただみち)。子は95慈円、孫は91良経。鳥羽天皇から4代に渡り関白を務めた。

1156年・保元の乱で後白河上皇側について、勝利。弟・藤原頼長と戦った。

93「契りおきし」藤原基俊から、根回しを頼まれた方の人。

 

 

77. 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあわむとぞ思ふ/崇徳院

77. 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあわむとぞ思ふ/崇徳院(すとくいん)

(読み)せをはやみ いわにせかるる たきがわの われてもすえに あわんとぞおもう

(訳)川瀬の急流が岩にせきとめられて分かれても、また下流で合わさるように、今2人が別れても将来再び逢おうと思う。


(作者)崇徳院(すとくいん)

第75代天皇。崇徳上皇。

和歌が好きでよく歌の会を開いた。父の鳥羽院からは自分の子でないため愛されなかった。

1156年・保元(ほうげん)の乱で、弟の後白河天皇に敗北し、讃岐国(さぬきのくに)に流された。

(藤原頼長、源為義・為朝らと組んだ。)

78. 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に 幾夜ねざめぬ須磨の関守/源兼昌

78. 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に 幾夜ねざめぬ須磨の関守 / 源兼昌

あわじしまかようちどりのなくこえに いくよねざめぬすまのせきもり(みなもとのかねまさ)

(訳)淡路島から渡ってくる千鳥の、もの悲しく鳴く声で幾晩目を覚ましたことだろうか。須磨の関守は。

(解説)
・「源氏物語」光源氏の「須磨の巻」に思いをはせてこの歌を詠んだという。


(作者)源兼昌(みなもとのかねまさ)。

79.秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出ずる月の影のさやけさ/左京大夫顕輔

79.秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出ずる月の影のさやけさ/左京大夫顕輔

あきかぜに たなびくくもの たえまより もれいずるつきの かげのさやけさ(さきょうのだいぶあきすけ)

(訳)秋風が吹いて横にたなびいている雲の切れ間から漏れ出てくる月の光は明るく澄みきっている。

(語句)
・月の影・・月の光

(解説)
・秋風と月を取り合わせて清々しい光景を詠んだ。


(作者)左京大夫顕輔。(さきょうのだいぶあきすけ)。藤原顕輔。84「ながらえば」藤原清輔朝臣の父。

崇徳院(77「せをはやみ」)から「詞花和歌集(しかわかしゅう)」の撰者に命じられた。

 

 

80. ながからむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ/待賢門院堀河

80. ながからむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ/待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)

(読み)ながからん こころもしらず くろかみの みだれてけさは ものをこそおもえ

(訳)末長く愛し続けようというあなたの気持ちが本当か分からず、お別れした今朝は、黒髪が乱れるように心が乱れて、もの思いに沈んでいます。

(解説)
・「後朝(きぬぎぬ)の歌」に対する返歌。

・ながからむ・・末永く愛し続けようという。


(作者)待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)。待賢門院璋子に仕え、堀河(ほりかわ)と呼ばれた。

※待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)は、鳥羽天皇の皇后で、崇徳院、後白河上皇の母。