03拾遺和歌集 – 楽しく百人一首

3. あしびきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかも寝む / 柿本人麻呂

3. あしびきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかも寝む / 柿本人麻呂

あしびきのやまどりのおのしだりおの ながながしよをひとりかもねん(かきのもとのひとまろ)

(意味)山鳥の長く垂れ下がった尾のようにこの長い夜を私は1人寂しく寝るのでしょうか。

(語句)
・「あしびきの」は「山」にかかる枕詞。

・「の」を繰り返すことで長い夜を表現している。

・「か」⇒「む(連体)」係り結び。

・「寝(ね)(未然)」+「む(推量)」⇒寝るのだろうか。

※「寝(ぬ)」(ナ下二)ね・ね・ぬ・ぬる・ぬれ・ねよ

(解説)
・元々は万葉集の詠み人知らずの歌とされる。


(作者)柿本人麻呂:万葉集の歌人。すぐれた歌を多数残す。天皇をたたえる歌、相聞歌(そうもんか/恋の歌)、挽歌(ばんか/死を悼む歌)など。

「歌聖(かせい/うたのひじり)」と仰がれる。三十六歌仙の一人。

持統天皇、文武天皇(軽皇子)に仕えた宮廷歌人。岩見国(島根)で亡くなったとされる。

・「万葉集」亡き妻を思い詠んだ歌
「笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹(いも)思ふ 別れ来ぬれば」

(訳)笹の葉は、この山にさやさやと(心乱せというように)風に吹かれて音を立てているけれど、私は妻のことを一筋に思っています。別れてきてしまったので。

 

 

26. 小倉山峰のもみじ葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ/貞信公

26. 小倉山峰のもみじ葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ/貞信公(ていしんこう)

おぐらやま みねのもみじば こころあらば いまひとたびの みゆきまたなん

(訳)小倉山の紅葉よ、もしもののあわれを分かる心があるならば、もう一度天皇の行幸(みゆき)まで散らずに待っていてほしい

(解説)
・小倉山・・京都市右京区嵯峨にあるもみじの名所

・宇多上皇の御幸(みゆき)の際に「息子の醍醐天皇にも見せたい」と言われたのを受けて詠んだ。

・醍醐天皇はこのあと小倉山に行幸された。これ以降、小倉山への天皇の行幸が恒例となり紅葉の名所となった。


(作者)
貞信公(ていしんこう)。藤原忠平(ふじわらのただひら)。藤原基経の三男。温厚な性格。60代醍醐・61代朱雀天皇に仕える。摂政、太政大臣、関白となる。

時平、仲平、忠平の3兄弟は三平(さんひら)と呼ばれ、藤原氏繁栄の基礎を築いた。

 

 

38. 忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな/右近

38. 忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな/右近(うこん)

わすらるる みをばおもわず ちかいてし ひとのいのちの おしくもあるかな

(訳)忘れられた私のことはいいのです。愛の誓いを破ったあなたの身が心配です。

(解説)
・藤原敦忠(ふじわらのあつただ)(43. 逢い見ての)に贈った歌。←敦忠は左大臣・藤原時平(菅原道真を大宰府へ左遷した)の息子。敦忠は実際に若くして38才で亡くなった。


(作者)
右近(うこん)。右近衛少将・藤原孝縄(うこんのえしょうじょう・ふじわらのすえなわ)の娘。恋多き女流歌人。

60代醍醐天皇の皇后・穏子(おんし)に仕えた。「大和物語」にも恋愛模様が描かれている。

 

40. 忍ぶれど色に出でにけりわが恋は 物や思ふと人の問ふまで/平兼盛

40. 忍ぶれど色に出でにけりわが恋は 物や思ふと人の問ふまで/平兼盛(たいらのかねもり)

しのぶれど いろにいでにけり わがこいは ものやおもうと ひとのとうまで

(訳)
人に知られないように隠してきたけれど、私の恋心は顔色に出てしまったようです。恋に悩んでいるでしょうかと人から尋ねられるほどに。

(解説)
・960年村上天皇の「天徳内裏歌合わせ」で「しのぶ恋」で詠まれた。壬生忠実(41恋すてふ)と対決し、こちらの「忍ぶれど」が勝った。


(作者)
平兼盛(たいらのかねもり)。(平清盛とは関係ない)。三十六歌仙の一人。光孝天皇(15きみがため)のひ孫。

 

41. 恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか/壬生忠見

41. 恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか/壬生忠見(みぶのただみ)

こいすちょう わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもいそめしか

(訳)恋をしている私のうわさは早くも広まってしまいました。誰にも知られないように心の中で思い始めたばかりなのに。

(解説)
・960年・天徳内裏歌合わせで40「しのぶれど」と対決した。摂津からはるばる都にやってきた。


(作者)
壬生忠見(みぶのただみ)。摂津国の下級役人。30「有明の」の壬生忠岑が父。

父子ともに三十六歌仙

 

43. 逢い見てののちの心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり / 権中納言敦忠

43. 逢い見てののちの心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり / 権中納言敦忠

(読み)あいみてののちのこころにくらぶれば むかしはものをおもわざりけり(ごんちゅうなごんあつただ)

(訳)あなたと一夜を過ごしたあとの恋しい心に比べれば昔の悩みなど悩みのうちに入らなかったなあ。

(解説)
・後朝(きぬぎぬ)の歌


(作者)
権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)。藤原敦忠。藤原時平の三男。

歌の才能と美貌に恵まれた恋多き貴公子。琵琶の名手で「琵琶中納言」とも呼ばれた。37才と若くして亡くなる。

右近(38「忘らるる」)が歌を送った相手。

 

44. 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし/中納言朝忠

44. 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし/中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ)

(読み)おうことの たえてしなくは なかなかに ひとをもみをも うらみざらまし

(訳)あの人とあって結ばれることが一度もなければ、かえってあの人の冷たさもわが身の辛さもこんなにうらむことはなかったのに。

(解説)
・960年・天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)での歌。


(作者)
中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ)。藤原朝忠。三条右大臣・藤原定方25「名にしおはば」が父。三十六歌仙の一人。

笙(しょう)や笛の名手。右近をはじめ多くの女性と恋のうわさになった。

 

45. あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな/謙徳公

45. あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな / 謙徳公

(読み)あわれともいうべきひとはおもおえで みのいたずらになりぬべきかな(けんとくこう)

(訳)
かわいそうだと言ってくれそうな人も思い浮かばないまま、私はきっとこのままむなしく死んでしまうのだろうなあ。


(作者)
謙徳公(けんとくこう)。藤原伊尹(ふじわらのこれただ)。

右大臣・藤原師輔(もろすけ)の子。貞信公(藤原忠平)26「小倉山」の孫。藤原義孝50「君がためお」の父。

娘の懐子(かねこ)が生んだ皇子が65代・花山天皇となった。つまり花山天皇の祖父。

 

47. 八重むぐら茂れる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり/恵慶法師

47. 八重むぐら茂れる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり/恵慶法師(えぎょうほうし)

やえむぐら しげれるやどの さびしきに ひとこそみえね あきはきにけり

(意味)むぐら(つる草)が生い茂ったさびしい家に人は来ないけれど、秋だけはやってきたなあ。

(解説)
河原左大臣(源融・みなもとのとおる)(14「みちのくの」)の豪華な邸宅「河原院・かわらのいん」(京都六条)に、ひ孫の安保(あんぽう)法師が住んでいた。

ここに友人の恵慶法師が尋ねたときに詠んだ歌。百年が過ぎて、有名だった広い庭園も寂れてしまった。

 


(作者)
恵慶法師(えぎょうほうし)。65代花山天皇(984)の頃の播磨国(兵庫)の国分寺の僧。自然を読むのが得意だった。

平兼盛(40「しのぶれど」)や、源重之(48「風をいたみ」)と親しかった。

 

53. 嘆きつつ独りぬる夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る/右大将道綱母

53. 嘆きつつ独りぬる夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る/右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)

なげきつつ ひとりぬるよの あくるまは いかにひさしき ものとかはしる

(訳)あなたが来ないことを嘆きながら一人で寝る夜がどんなに長いか、きっとあなたはご存じないでしょうね。


(作者)
右大将道綱母。(うだいしょうみちつなのはは)。「蜻蛉日記」作者。藤原兼家の第二夫人。

藤原兼家は、藤原家隆(兄)、藤原道長(弟)の父。

兄・藤原家隆は54「忘れじの」儀同三司母の夫。66代一条天皇の中宮・定子(ていし)の父。