百人一首 – ページ 9 – 百人一首note

81. ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただありあけの月ぞ残れる/後徳大寺左大臣

81. ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただありあけの月ぞ残れる/後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)

ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる

(訳)ホトトギスの鳴いた方を見渡したところ、ただ有明の月が残っているばかりである。

(解説)
・ほととぎすは夏を彩る代表。貴族たちは夏を告げるほととぎすの第一声「初声(はつね)」を待ち望んで夜を明かした。

・万葉集ではホトトギスは橘の花と一緒に詠まれることが多かったが、平安時代は鳴き声を詠まれるようになった。


(作者)後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)。藤原実定(さねさだ)。藤原定家のいとこ。「平家物語」に登場する。和歌や音楽の才能があった。

82. 思ひわびさても命はあるものを 憂きにたへぬは涙なりけり/道因法師

82. 思ひわびさても命はあるものを 憂きにたへぬは涙なりけり/道因法師(どういんほうし)

おもいわびさてもいのちはあるものを うきにたえぬはなみだなりけり

(訳)思い悩んでいてそれでも命はあるのに、辛さにこらえきれないのは涙なのだなあ。

(解説)
・命と涙。自分ではコントロールできない二つを比べて表現している。

65「うらみわび」の歌と、「〜わび」・「あるものを」の部分が共通している。


(作者)道因法師(どういんほうし)。藤原敦頼(あつより)。崇徳院(77「せをはやみ」)に仕えた。

80歳で出家。80代になってからも秀歌ができるよう住吉神社にお参りしたり、90代で歌会にも参加するなど歌道に熱心だった。

83. 世の中よ道こそなけれ思い入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる/皇太后宮太夫俊成

83. 世の中よ道こそなけれ思い入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる/皇太后宮太夫俊成

よのなかよみちこそなけれおもいいる やまのおくにもしかぞなくなる(こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい)

(訳)この世の中にはつらさから逃れる道はないものだなあ。思いつめて山に入ったものの、山奥でも鹿が悲しげに鳴いているのだから。

(解説)
・山に入る・・「出家する」の意味もある。しかし山奥(仏の道)に入っても世の中のつらさからは逃れられないと気付いた。


(作者)皇太后宮太夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい)。藤原俊成。(ふじわらのしゅんぜい)。97「来ぬ人を」藤原定家の父。『千載和歌集』の撰者(後白河院の命)。

『古来風体抄(こらいふうていしょう)』(『万葉集』から『千載和歌集』までの秀歌をあげ史的展開を論ずる。歌論。)

平安時代末期、戦乱が激しくなり貴族社会から武家社会へ移り変わろうとしていた。

俊成の友人、佐藤義清(さとうのりきよ)も出家して西行法師(86「嘆けとて」)となったことで、俊成も出家を考えたが自分は歌の道でいこうと決めた。

 

84. ながらえばまたこのごろやしのばれん 憂しと見し世ぞいまはこいしき/藤原清輔朝臣

84. ながらえばまたこのごろやしのばれん 憂しと見し世ぞいまはこいしき/藤原清輔朝臣

ながらえばまたこのごろやしのばれん うしとみしよぞいまはこいしき(ふじわらのきよすけあそん)

(訳)生きながらえていたならば、辛い今のことも懐かしく思い出されるのだろうか。辛かった過去がいまは恋しく思うのだから。

(解説)
過去、現在、未来を見る諦観の歌。
諦観(ていかん):本質を明らかに見てとる。悟りの境地にあって物事をみること。


(作者)藤原清輔朝臣(ふじわらきよすけのあそん)。父・藤原顕輔(79「秋風に」)とは折り合いが悪く、出世できず苦しい日々を送る。

 


 

85. 夜もすがらもの思ふころは明けやらで ねやのひまさへつれなかりけり/俊恵法師

85. 夜もすがらもの思ふころは明けやらで ねやのひまさへつれなかりけり/俊恵法師

よもすがらものおもうころはあけやらで ねやのひまさえつれなかりけり(しゅんえほうし)

(訳)一晩中思い悩んでいるこの頃は、夜もなかなか明けきらないで、寝室の板戸の隙間までもが冷淡に思えるのですよ。

(解説)
・夜もすがら・・一晩中

・女性になりきって詠っている。


(作者)俊恵法師(しゅんえほうし)。歌人で文学者。東大寺の僧になった。「方丈記」鴨長明の師。

74「うかりける」源俊頼(としより)の息子。歌林苑(かりんえん)という和歌のサロンなどを開く。

 

86.嘆けとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな/西行法師

86.嘆けとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな/西行法師

なげけとてつきやはものをおもわする かこちがおなるわがなみだかな(さいぎょうほうし)

(訳)嘆けといって、月は物思いをさせるのだろうか。いや、そうではないのに、月にかこつけて恨めしそうに落ちてくる私の涙よ。

(解説)
・「月前恋(げつぜんのこい)」というお題で詠まれた。恋の切なさ。


(作者)西行法師(さいぎょうほうし)。佐藤義清(さとうのりきよ)。鳥羽院を警護する北面の武士だったが23才で妻子と別れて出家。生涯旅をして過ごした。

各地を旅して『山家集(さんかしゅう)』(1570首)『西行上人集』などの歌集を残す。『新古今和歌集』には94首もの西行の和歌が選ばれている。

83「よのなかよ」の藤原俊成とも親しく、俊成の歌は西行の出家も影響しているといわれる。

「願わくは花のもとにて春死なん その如月の望月のころ」(ねがわくははなのもとにてはるしなん そのきさらぎのもちづきのころ)という自分の和歌のとおり2月(如月)16日(望月=満月)に亡くなった。

釈迦の入滅が2月15日で同じ頃にと望んだ。現在でいうと3月後半ごろなのでまさに花(桜)の時期。

 

87. 村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ / 寂蓮法師

87. 村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ / 寂蓮法師(じゃくれんほうし)

(読み)むらさめの つゆもまだいぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆうぐれ

(訳)にわか雨が降ってきて、そのしずくもまだ乾ききらない杉や槇の葉に、霧が立ち上っている秋の夕暮れだなあ。

(解説)
・水墨画を眺めているような幻想的な秋の情景。

・村雨(むらさめ)・・秋から冬にかけて降る激しいにわか雨。

・まだひぬ・・まだ乾かない


(作者)寂蓮法師(じゃくれんほうし)。藤原定長(さだなが)。『新古今集』撰者だが完成前に亡くなる。

幼少期に藤原俊成の養子となるが、実子の藤原定家が生まれたあと30代で出家。

『新古今集』の三夕(さんせき)の一首、「寂しさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ」の歌もある。

 

88. 難波江の 葦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき / 皇嘉門院別当

88. 難波江の 葦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき / 皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)

(読み)なにわえの あしのかりねの ひとよゆえ みをつくしてや こいわたるべき

(訳)なにわの入り江の芦の刈り根の一節(ひとよ)のような、仮寝の一夜をあなたと過ごしたせいで、澪標(みをつくし)のように身を尽くして恋し続けるのでしょうか。

(解説)
・摂政・藤原兼実の歌合で「旅宿に逢ふ恋」という題で詠まれた。遊女の心を想像して詠んだ。一夜限りゆえに思い悩む恋を表現。

20「わびぬれば」元良親王の本歌取り。


(作者)皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)。崇徳院(77「せをはやみ」)の皇后である皇嘉門院(こうかもんいん)に仕え、別当(女官長)と呼ばれた。源敏隆(としたか)の娘。

89. 玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする / 式子内親王

(彼岸花 花言葉:情熱)

89. 玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする / 式子内親王

(読み)たまのおよ たえねばたえね ながらえば しのぶることの よわりもぞする(しょくしないしんのう)

(訳)命よ。絶えてしまうなら絶えておくれ。このまま生きたならば恋心をこらえる気持ちが弱ってしまい人目につくと困るから。

(解説)
・人目を忍ぶ恋


(作者)式子内親王(しょくしないしんのう)。後白河天皇の第3皇女、賀茂の斎院。

藤原俊成(83「よのなかよ」)や、息子の定家(97「来ぬ人を」)から、歌の指導を受けた。10歳年下の定家への思いを詠んだ歌とされる。

新古今集の代表歌人。

90. 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色は変はらず / 殷富門院大輔

90. 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色は変はらず / 殷富門院大輔

(読み)みせばやな おじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかわらず(いんぷもんいんのたいふ)

(訳)お見せしたいものです。雄島の漁師の袖でさえも、波に濡れに濡れてそれでも色は変わらなかったというのに。

(解説)
・雄島は日本三景の一つ宮城・松島にある島。歌枕。

・源重之(48「風をいたみ」)作の「松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくは濡れしか」からの本歌取り。

・血涙(紅涙)という表現は漢詩文の影響


(作者)殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)。藤原信成の娘。殷富門院(式子内親王の姉)に仕えた。

多作であったことから「千首大輔」の異名がある。西行や寂蓮とも歌のやりとりをした。