雑 – 楽しく百人一首

8. わが庵は都のたつみしかぞ住む 世をうぢ山と人はいふなり/喜撰法師

8. わが庵は都のたつみしかぞ住む 世をうぢ山と人はいふなり/喜撰法師(きせんほうし)

わがいおは みやこのたつみ しかぞすむ よをうじやまと ひとはいうなり

(訳)
私の草庵は都の東南にあってこのように穏やかに住んでいる。なのに世間の人々は辛い世から逃れて宇治山に隠れ住んでいると噂しているようだ。

(解説)
・宇治へ隠れ住んでいるという噂を笑い飛ばすようなユーモアのある一句。

・「宇治」と「憂し(うし)」との掛詞。

・宇治山は現在喜撰山(きせんざん)と呼ばれる。


(作者)
喜撰法師。六歌仙の1人。仙人となり雲にのって飛び立ったという伝説が残る。

 

 

10. これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関/蝉丸

10. これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関/蝉丸(せみまる)

これやこの ゆくもかえるも わかれては しるもしらぬも おうさかのせき

(訳)これがあの、東へ行く人も都へ帰る人も、ここで別れ、知っている人も知らない人も出会う逢坂の関なのですね。

(解説)
・「逢坂の関」は山城国(やましろのくに・京都)と近江国(おうみのくに・滋賀)の関所。

・「逢坂の関」は「鈴鹿の関」「不和の関」と並ぶ三関の一つ。歌枕(歌に出てくる地名)によく使われる。


(作者)
蝉丸:琵琶、蝉歌(声を絞って歌う)の名手。

「今昔物語」では59代宇多天皇の皇子、敦実(あつざね)親王に仕えたと言われている。

 

12. 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ/僧正遍昭

12. 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ / 僧正遍昭

あまつかぜくものかよいじふきとじよ おとめのすがたしばしとどめん(そうじょうへんじょう)

(訳)大空を吹く風よ。雲の中の天への通路を吹き閉ざしておくれ。天女たちの姿をもうしばらくとどめておきたいから。

(解説)
11月中旬、宮中行事の「豊明の節会(とよあかりのせちえ)」(天皇が新米を食べる儀式)の「五節の舞姫(ごせちのまいひめ)」を見て詠んだ。

(解説)
・「天つ風」・・天の風。空を吹く風よ。「つ」は「の」の意味。


(作者)
僧正遍昭(そうじょうへんじょう)。良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。

六歌仙三十六歌仙の一人。平安京を開いた50代・桓武天皇の孫。良岑安世(よしみねのやすよ)の息子。21「いま来むと」の素性法師の父。

54代・仁明天皇(833年)に仕え「良少将」「深草少将」と呼ばれた。仁明天皇崩御のあと35才で比叡山にのぼり出家。僧正は僧侶の中で最も高い位。元慶寺を創設。

美男としても知られ、9「花の色は」の小野小町とも親しかった。

 

34. 誰をかもしる人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに/藤原興風

34. 誰をかもしる人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに/藤原興風(ふじわらのおきかぜ)

たれをかも しるひとにせん たかさごの まつもむかしの ともならなくに

(訳)
心をかわす古くからの友人もいなくなった今、誰を友としよう。あの年老いた高砂の松も昔からの友ではないのに。

(解説)
・高砂(たかさご)・・播磨の国(兵庫・高砂市)の海岸にある、長寿の松の名所。


(作者)
藤原興風(ふじわらのおきかぜ)。琵琶や琴の名手だった。凡河内躬恒(29「心あてに」)や紀貫之(35「人はいさ」)らと歌会をしていた。三十六歌仙の一人。

55. 滝の音は耐えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ/大納言公任

55. 滝の音は耐えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ/大納言公任(だいなごんきんとう)

たきのおとは たえてひさしく なりぬれど なこそながれて なおきこえけれ

(訳)滝の音は長い年月の間に枯れて聞こえなくなったけれど、名高い評判は今も伝わっているよ。

(解説)
・大覚寺(嵐山)で詠まれた歌。200年前は嵯峨天皇の離宮だった。今は「名古曽滝跡(なこそのたきあと)」の碑が立っている。


(作者)
大納言公任(だいなごんきんとう)。藤原公任として「大鏡」にも出てくる。和歌、漢詩、管弦に優れた「三船の才(さんせんのさい)」と称された。

「和漢朗詠集」や「拾遺集」をまとめた。藤原定頼64「朝ぼらけ」は息子。

 

57. めぐりあひて見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし夜半の月かな/紫式部

57. めぐりあひて見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし夜半の月かな/紫式部(むらさきしきぶ)

めぐりあいて みしやそれとも わかぬまに くもがくれにし よわのつきかな

(訳)久しぶりに巡り合い見たのかどうか分からないうちに雲間に隠れてしまった夜中の月のように、あなたはたちまち帰ってしまった。


(作者)
紫式部(むらさきしきぶ)。香子(かおりこ)。「源氏物語」の作者。藤原為時の娘。藤原信孝と結婚。娘は大弐三位(だいにのさんみ)58「有馬山」

夫と死別後、一条天皇の中宮、彰子(しょうし)に仕えた。

 

 

60. 大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立/小式部内侍

60. 大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立/小式部内侍(こしきぶのないし)

おおえやま いくののみちの とおければ まだふみもみず あまのはしだて

(訳)大江山を超えて生野を通る道は遠いので、丹後国の天橋立に行ったこともありませんし、母からの手紙も見ていません。

(解説)
・藤原定頼(64「朝ぼらけ」が、からかったことに対してピシャリと答えた歌。


(作者)
小式部内侍(こしきぶのないし)。母は和泉式部56「あらざらん」。母とともに中宮彰子に仕えるが、25才で若くして病気で亡くなる。

62. 夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ/清少納言

62. 夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ/清少納言(せいしょうなごん)

よをこめて とりのそらねは はかるとも よにおうさかの せきはゆるさじ

(訳)深夜ににわとりの鳴き声をして騙そうとしても、函谷関はともかく、逢坂の関は許しませんよ。ですから私に会いにくるのも許しません。

(解説)
・函谷関(かんこくかん)の孟嘗君の話を取り入れた。

・先に帰った藤原行成からのおわびの手紙に対して返した歌。


(作者)
清少納言(せいしょうなごん)。清原なぎこ。「枕草子」の作者。一条天皇の中宮、定子(ていし)に仕えた。

曾祖父は清原深養父(36「夏の夜は」)、父は清原元輔(42「契りきな」)。

66. もろともにあはれと思へ山ざくら 花よりほかに知る人もなし/前大僧正行尊

66. もろともにあはれと思へ山ざくら 花よりほかに知る人もなし/前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)

(読み)もろともに あはれとおもえ やまざくら はなよりほかに しるひともなし

(訳)山桜よ、私がお前をしみじみと懐かしく思うように、お前も私を懐かしく思っておくれ。お前のほかに私の心を知る人もいないのだから。

(解説)
・大峰山で修行中に山桜を見つけ詠んだ。


(作者)大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)。12才で出家。以後、天台宗・三井寺で厳しい修行を積む。

三条院(68「こころにも」)のひ孫。白河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇(77「せをはやみ」)に僧として仕えた。

 

67. 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ/周防内侍

67. 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ/周防内侍(すおうのないし)

(読み)はるのよの ゆめばかりなる たまくらに かいなくたたん なこそおしけれ

(訳)春の夜の夢のように短く儚い間でも、いたずらな気持ちで腕枕を借りたら、つまらない噂が立つでしょう。それはくやしいではないですか。

(解説)
・「枕がほしい」と言ったら藤原忠家が「どうぞ」と手を差し出した。この冗談に優雅に返した歌。


(作者)周防内侍(すおうのないし)。平仲子(たいらのちゅうし)。後冷泉天皇、白河天皇、堀河天皇、に内侍として仕えた。