雑 – ページ 2 – 百人一首note

68. 心にもあらで憂世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな/三条院

68. 心にもあらで憂世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな/三条院

こころにもあらでうきよにながらえば こいしかるべきよわのつきかな(さんじょういん)

(訳)心ならずもこのはかない現世で生きながらえていたならば、きっと恋しく思い出されるに違いない、この夜更けの月のことを。

(解説)
・三条院(さんじょういん)は、目を患ったことを理由に退位を迫られた。

・「夜半の月かな」は「めぐりあいて」の最後とも同じ。


(作者)三条院(さんじょういん)。67代三条天皇。63代・冷泉天皇の皇子。

宮中の二度の火事と目の病気を理由に、藤原道長の圧力で5年で退位させられた。

道長の孫(68代・後一条天皇)に位を譲った。

 

75. ちぎりおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり/藤原基俊

75. ちぎりおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり/藤原基俊

ちぎりおきしさせもがつゆをいのちにて あわれことしのあきもいぬめり(ふじわらのもととし)

(訳)あなたが約束してくださった恵みの露のようなはかない言葉を命のように大切にしていたのに、ああ今年の秋もむなしく過ぎていくようです。

(解説)
・興福寺で行われる「維摩講(ゆいまこう)」の講師(こうじ)に自分の息子が選ばれるよう76藤原忠道に頼んだが果たされなかった。

・恋の歌のようにも詠めるのがおもしろいところ。


(作者)藤原基俊(ふじわらのもととし)。藤原道長のひ孫。

 

 

76.わたの原こぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波/法性寺入道前関白太政大臣

76.わたの原こぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波/法性寺入道前関白太政大臣

わたのはらこぎいでてみればひさかたの くもいにまがうおきつしらなみ(ほっしょうじにゅうどう さきのかんぱく だいじょうだいじん)

(訳)大海原に舟を漕ぎだして辺りを見わたすと、雲と見間違うような沖の白波が立っていることです。

(解説)
・崇徳天皇の歌合わせ。「海上遠望(海の上で遠くを眺める)」というお題。漢詩のようなお題なので、漢詩が得意な忠道にはよかったのだろう。

・「ひさかたの」⇒「雲」にかかる枕詞。「天」をはじめ「光」「空」「月」「雲」「雨」などの言葉にかかる。


(作者)法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどう さきのかんぱく だいじょうだいじん)

藤原忠道(ふじわらのただみち)。子は95慈円、孫は91良経。鳥羽天皇から4代に渡り関白を務めた。

1156年・保元の乱で後白河上皇側について、勝利。弟・藤原頼長と戦った。

93「契りおきし」藤原基俊から、根回しを頼まれた方の人。

 

 

83. 世の中よ道こそなけれ思い入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる/皇太后宮太夫俊成

83. 世の中よ道こそなけれ思い入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる/皇太后宮太夫俊成

よのなかよみちこそなけれおもいいる やまのおくにもしかぞなくなる(こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい)

(訳)この世の中にはつらさから逃れる道はないものだなあ。思いつめて山に入ったものの、山奥でも鹿が悲しげに鳴いているのだから。

(解説)
・山に入る・・「出家する」の意味もある。しかし山奥(仏の道)に入っても世の中のつらさからは逃れられないと気付いた。


(作者)皇太后宮太夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜい)。藤原俊成。(ふじわらのしゅんぜい)。97「来ぬ人を」藤原定家の父。『千載和歌集』の撰者(後白河院の命)。

『古来風体抄(こらいふうていしょう)』(『万葉集』から『千載和歌集』までの秀歌をあげ史的展開を論ずる。歌論。)

平安時代末期、戦乱が激しくなり貴族社会から武家社会へ移り変わろうとしていた。

俊成の友人、佐藤義清(さとうのりきよ)も出家して西行法師(86「嘆けとて」)となったことで、俊成も出家を考えたが自分は歌の道でいこうと決めた。

 

84. ながらえばまたこのごろやしのばれん 憂しと見し世ぞいまはこいしき/藤原清輔朝臣

84. ながらえばまたこのごろやしのばれん 憂しと見し世ぞいまはこいしき/藤原清輔朝臣

ながらえばまたこのごろやしのばれん うしとみしよぞいまはこいしき(ふじわらのきよすけあそん)

(訳)生きながらえていたならば、辛い今のことも懐かしく思い出されるのだろうか。辛かった過去がいまは恋しく思うのだから。

(解説)
過去、現在、未来を見る諦観の歌。
諦観(ていかん):本質を明らかに見てとる。悟りの境地にあって物事をみること。


(作者)藤原清輔朝臣(ふじわらきよすけのあそん)。父・藤原顕輔(79「秋風に」)とは折り合いが悪く、出世できず苦しい日々を送る。

 


 

95. おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつ杣に すみぞめのそで / 前大僧正慈円

(比叡山延暦寺 東塔)

95. おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつ杣に すみぞめのそで / 前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)

(読み)おおけなく うきよのたみに おおうかな わがたつそまに すみぞめのそで

(訳)分不相応ではあるけれど、辛いこの世を生きる人々に覆いかけたいものだ。私が住みはじめた比叡山での仏の祈りを。

(解説)
・世の人のために仏の加護を願う心


(作者)前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)。父は藤原忠通(76「わたのはら こ」)。兄は九条兼実(くじょうかねざね)。

歴史書『愚管抄』の作者。14歳で出家し、天台座主(てんだいざす・比叡山延暦寺の最高僧。天台宗一門の首長)に四度なる。

96. 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり / 入道前太政大臣

96. 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり / 入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)

(読み)はなさそう あらしのにわの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり

(訳)桜が咲き散るように誘う山嵐が吹いている庭にいて、ふりゆくものといえば雪なのではなく、老いていく私の身なのだ。

(解説)
・落花に自らの老いを重ねて嘆く

・雪ならで・・雪ではなくて

・「ふりゆく」は「降りゆく」と「古りゆく」との掛詞


(作者)入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)。藤原公経(ふじわらのきんつね)、西園寺公経(さいおんじきんつね)。藤原定家の妻の弟。

西園寺公経の妻は源頼朝の姪だったため、承久の乱(1221)では鎌倉幕府に味方した。乱の後、関東申次(かんとうもうしつぎ)の役職に付いた。以後世襲となる。

また公経は、孫の藤原頼経(三寅)を鎌倉4代将軍(摂家将軍)にしたことで、朝廷でも重んじられた。孫娘を後嵯峨天皇の中宮に。

 

99. 人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆえに 物思ふ身は / 後鳥羽院

(島根・隠岐の島より)

99. 人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆえに 物思ふ身は / 後鳥羽院(ごとばいん)

(読み)ひともおし ひともうらめし あじきなく よをおもうゆえに ものおもうみは

(訳)人を愛おしく思ったり、人を恨めしく思ったり。どうしようもないと世を思うせいであれこれ思い悩む身となっては。

(解説)
・思い悩みながら生きる嘆き

・惜し・・愛しい


(作者)後鳥羽院(ごとばいん)。82代天皇。81代安徳天皇が平氏と共に都落ちしたのち、異母弟である後鳥羽天皇が4歳で即位。

藤原家定に『新古今和歌集』を撰ばせた。この歌を詠んだ9年後の1221年、倒幕をもくろみ、承久の乱を起こしたが破れ、隠岐の島に流される。在島19年、60才で崩御。息子は順徳院(100)

貴族の時代(平安)が終わり、武士の時代(鎌倉)が始まろうとしていた。

100. 百敷や ふるき軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり / 順徳院

(佐渡・順徳上皇 行主所跡)

100. 百敷や ふるき軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり / 順徳院(じゅんとくいん)

(読み)ももしきや ふるきのきばの しのぶにも なおあまりある むかしなりけり

(訳)宮中の古い軒端の下に生えている忍草を見ると、やはりしのぶにもしのびつくせないのは、栄えていた昔のことであるよ。

(解説)
・栄えていた時代を懐かしむ心

・ももしき・・宮中。「ももしき」は「大宮」にかかる枕詞だった。
(ももしきの大宮人はいとまあれや 桜かざして今日も暮らしつ ー山部赤人)

・軒端(のきば)・・屋根の下の方のはじ

・しのぶにも・・「しのび草」と「昔をしのぶ」の掛詞。


(作者)順徳院(じゅんとくいん)。84代天皇。詩歌・音楽に没頭。後鳥羽院(99「人もおし」)の第三皇子。

歌論書『八雲御抄(やくもみしょう)』を記した。和歌を藤原定家に習う。

1216年、20歳のときにこの歌を詠んだ。5年後の1221年、承久の乱で後鳥羽院と共に流刑。父の後鳥羽院は隠岐島(島根県)へ、息子の順徳院は佐渡(新潟県)に流された。