夏 – 百人一首note

2. 春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 / 持統天皇

2. 春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 / 持統天皇(じとうてんのう)

(音声📢

(読み)はるすぎて なつきにけらし しろたえの ころもほすちょう あまのかぐやま

(訳)春が過ぎていつのまにか夏が来たらしい。天の香具山に真っ白な衣が干してあるのだから。

(語句)
・「けらし」・・「ける」+「らし」(推定)

※「らし」は客観的な事実に基づいた推定。「①客観的な事実」があって+「②だから~らしい」と推定する。この歌は倒置法で「②~らしい」+「①だって~(事実)だから」となる。

・「白妙の」・・「衣」にかかる枕詞。白い布。「白妙の」は他に雪、雲、袖、ひもなどにかかる。

・「てふ(ちょう)」・・「といふ」が詰まったもの

 

(解説)
・さわやかな夏の情景と伝説の山の神秘性を感じる歌。

・「万葉集」では「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香久山」となっている。

万葉集の方は「干したり」で目の前のことを歌っているが、「新古今集」の「干すてふ(干すといふ)」では、「干すと伝えられている」と、天の香具山の伝承を取り込むような形になっている。

・天上から降りてきたという神話的な伝説から「天の」を冠する。

 


(作者)持統天皇:40代目天皇。天智天皇(1「秋の田の」)の第二皇女(おうじょ・ひめみこ・こうじょ)。天武天皇の妻。都を飛鳥から藤原の地へ移す。日本最古の都、藤原京を開いた。

 

天の香具山は、神の住む山とされている。現在の奈良県橿原市。

「大和三山」は「香具山(かぐやま)」、「畝傍山(うねびやま)」、「耳成山(みみなしやま)」。信仰の対象とされていた。

藤原京条坊

引用:Wikipedia大和三山

藤原宮から見て左手に「天の香具山」が見えたと思われる。後ろに耳成山、右手に畝傍山。

 

 

36. 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ / 清原深養父

36. 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ / 清原深養父(きよはらのふかやぶ)

(読み)なつのよは まだよいながら あけぬるを くものいずこに つきやどるらん

(訳)夏の夜は短いのでまだ宵(夜)だと思ってるうちに開けてしまった。雲のどのあたりに沈み切らなかった月は宿にしているのだろう。

(解説)
・「宵」・・夜に入ってすぐ。「夕」のあと。「夜半」の前。


(作者)清原深養父(きよはらのふかやぶ)。清少納言(62「よをこめて」)の曾祖父。清原元輔(42「契りきな」)の祖父。紀貫之(35)らと交流があった。琴の名手。

 

81. ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただありあけの 月ぞ残れる / 後徳大寺左大臣

81. ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただありあけの 月ぞ残れる / 後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)

(読み)ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる

(訳)ホトトギスの鳴いた方を見渡したところ、ただ有明の月が残っているばかりである。

(解説)
・ほととぎすは夏を彩る代表。貴族たちは夏を告げるほととぎすの第一声「初声(はつね)」を待ち望んで夜を明かした。

・万葉集ではホトトギスは橘の花と一緒に詠まれることが多かったが、平安時代は鳴き声を詠まれるようになった。


(作者)後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)。藤原(徳大寺)実定(さねさだ)。右大臣・公能(きんよし)の息子。

藤原定家(97)のいとこ。和歌や音楽の才能があり、俊恵(85)の歌林苑歌人たちとも交流があった。『平家物語』に登場する。

98. 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける / 従二位家隆

98. 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける / 従二位家隆(じゅにいいえたか)

(読み)かぜそよぐ ならのおがわの ゆうぐれは みそぎぞなつの しるしなりける

(訳)風がそよそよと音を立てて楢の葉に吹きそよぐ、ならの小川の夕暮れは、夏越し(なごし)のみそぎの行事だけが、夏であることのしるしなのだなあ。

(解説)
・「ならの小川」は奈良ではなく、京都の御手洗川(みたらしがわ)のこと。北区の上賀茂(かみがも)神社の境内を流れる。

・「なら」と「楢」の掛詞。

・みそぎ・・年中行事の一つ「水無月ばらえ」。川で身を清め、罪や穢れをはらう。旧暦6月29日(現在の8月7日ごろ)。次の日から秋(立秋)になるので「夏越しのはらえ」とも言う。


(作者)従二位家隆(じゅにいいえたか)。藤原家隆。藤原定家のライバル。定家は「火」、家隆は「水」を詠った。

『新古今集』の撰者のひとり。妻は寂蓮法師(87「むらさめの」)の娘。寂蓮法師は義父にあたる。

家隆は後鳥羽院(99「人も惜し」)が隠岐に流されたあとも文通を続けた。