恋 – ページ 2 – 百人一首note

38. 忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな / 右近

38. 忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな / 右近(うこん)

(読み)わすらるる みをばおもわず ちかいてし ひとのいのちの おしくもあるかな

(訳)忘れられた私のことはいいのです。愛の誓いを破ったあなたの身が心配です。

(解説)
・藤原敦忠(ふじわらのあつただ)(43.「逢い見ての」)に贈った歌。←敦忠は左大臣・藤原時平(菅原道真を大宰府へ左遷した)の息子。敦忠は実際に若くして38才で亡くなった。


(作者)右近(うこん)。右近衛少将・藤原孝縄(うこんのえしょうじょう・ふじわらのすえなわ)の娘。恋多き女流歌人。藤原敦忠(43)や元良親王(20)などと恋をしたと言われる。

60代醍醐天皇の皇后・穏子(おんし)に仕えた。『大和物語』にも恋愛模様が描かれている。

 

39. 浅茅生の 小野の篠原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき / 参議等

39. 浅茅生の 小野の篠原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき / 参議等

(読み)あさじうの おののしのはら しのぶれど あまりてなどか ひとのこいしき(さんぎひとし)

(訳)低い茅(ちがや)(ススキ)が生える、小野の篠原のようにしのんできたけれど、もう抑えきれません。どうしてこんなにあなたが恋しいのでしょう。

(解説)
・『古今集』の「浅茅生の小野の篠原忍ぶとも 人しるらめやいう人なしに(詠み人知らず)」を本歌にしている。

・あまりて・・抑えきれないで


(作者)参議等(さんぎひとし)。源等(みなもとのひとし)。52代嵯峨天皇のひ孫。

『後撰和歌集』に採録された「東路の佐野の舟橋かけてのみ 思ひわたるを知る人ぞなき」は、本阿弥光悦作『舟橋蒔絵硯箱』の蓋の意匠に取り入れられた。

 

 

40. 忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで / 平兼盛


(ハナシノブ)

40. 忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで / 平兼盛(たいらのかねもり)

(読み)しのぶれど いろにいでにけり わがこいは ものやおもうと ひとのとうまで

(訳)人に知られないように隠してきたけれど、私の恋心は顔色に出てしまったようです。恋に悩んでいるでしょうかと人から尋ねられるほどに。

(解説)
・960年村上天皇の「天徳内裏歌合わせ」で「しのぶ恋」で詠まれた。壬生忠実(41恋すてふ)と対決し、こちらの「忍ぶれど」が勝った。


(作者)平兼盛(たいらのかねもり)。(平清盛とは関係ない)。三十六歌仙の一人。光孝天皇(15きみがため)のひ孫の子。

 

41. 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか / 壬生忠見

(ヒトリシズカ)

41. 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか / 壬生忠見(みぶのただみ)

(読み)こいすちょう わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもいそめしか

(訳)恋をしている私のうわさは早くも広まってしまいました。誰にも知られないように心の中で思い始めたばかりなのに。

(解説)
・まだき・・早くも

・960年・天徳内裏歌合わせで40「しのぶれど」と対決した。摂津からはるばる都にやってきた。


(作者)壬生忠見(みぶのただみ)。摂津国の下級役人。父は壬生忠岑(30「有明の」)。

父子ともに三十六歌仙

42. 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波超さじとは / 清原元輔

42. 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波超さじとは/清原元輔(きよはらのもとすけ)

(読み)ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すえのまつやま なみこさじとは

(訳)約束しましたよね。涙にぬれた袖を絞りながら。末の松山を波が決して越さないように2人の愛も変わらないと。

(解説)
・末の松山・・陸奥国(宮城県)にある松の名所。多賀城市あたり。

・869年の貞観(じょうがん)地震の際も、波は末の松山を越えなかった。

・作者の清原元輔が代理で詠んだ。

・『古今集』の「君をおきて あだし心を わがもたば 末の松山 浪もこえなむ」を元にした。


(作者)清原元輔(きよはらのもとすけ)(908~990)。清少納言(62「夜を込めて」)の父。清原深養父( 36「夏の夜は」)の孫。

『後撰集』をまとめた「梨壺の五人」のうちの一人。三十六歌仙の一人。

 

43. 逢い見ての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり / 権中納言敦忠

43. 逢い見ての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり / 権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)

(読み)あいみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもわざりけり

(訳)あなたと一夜を過ごしたあとの恋しい心に比べれば昔の悩みなど悩みのうちに入らなかったなあ。

(解説)
・後朝(きぬぎぬ)の歌


(作者)権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)。藤原敦忠。藤原時平の三男。

歌の才能と美貌に恵まれた恋多き貴公子。琵琶の名手で「琵琶中納言」とも呼ばれた。37才と若くして亡くなる。

右近(38「忘らるる」)が歌を送った相手。

 

44. 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし / 中納言朝忠

44. 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし / 中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ)

(読み)おうことの たえてしなくは なかなかに ひとをもみをも うらみざらまし

(訳)あの人と会って結ばれることが一度もなければ、かえってあの人の冷たさもわが身の辛さもこんなにうらむことはなかったのに。

(解説)
・960年・天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)での歌。

・「~なくは~まし」は反実仮想。


(作者)中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ)。藤原朝忠。三条右大臣・藤原定方(25「名にしおはば」)が父。三十六歌仙の一人。

笙(しょう)や笛の名手。右近(38)をはじめ多くの女性と恋のうわさになった。

 

45. あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな / 謙徳公

45. あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな / 謙徳公(けんとくこう)

(読み)あわれとも いうべきひとは おもおえで みのいたずらに なりぬべきかな

(訳)かわいそうだと言ってくれそうな人も思い浮かばないまま、私はきっとこのままむなしく死んでしまうのだろうなあ。


(作者)謙徳公(けんとくこう)。藤原伊尹(ふじわらのこれただ)。

藤原兼家の兄。右大臣・藤原師輔(もろすけ)の子。貞信公(藤原忠平)(26「小倉山」)の孫。藤原義孝(50「君がためお」)の父。

娘の懐子(かねこ)が生んだ皇子が65代・花山天皇となった。つまり花山天皇の祖父。円融天皇の摂政。和歌所の別当として『後撰集』の編纂を統括した。

 

46. 由良の門を わたる舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな / 曽禰好忠

46. 由良の門を わたる舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな / 曽禰好忠(そねのよしただ)

(読み)ゆらのとを わたるふなびと かじをたえ ゆくえもしらぬ こいのみちかな

(訳)由良の海峡を渡る舟人がかいを失って行く先も分からず漂っているように私の恋の道もどうなるか分からない。

(解説)
・由良の門・・京都府の由良川が若狭湾に流れ込むあたり。門(と)は水流の出入りする海峡。流れの激しいところ。


(作者)曽禰好忠(そねのよしただ)。三十六歌仙の一人。丹後(京都北部)の掾(じょう)という役人。(※四等官・・長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん))

自由、新鮮で個性的な歌を詠み、歌壇に新風を与えた。後の源俊頼(74)にも影響を与える。『拾遺和歌集』以下の勅撰集に94首入集。

一日一首の歌日記的な三百六十首和歌など新しい連作形式も生み出した。

48. 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな / 源重之

48. 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな / 源重之(みなもとのしげゆき)

(読み)かぜをいたみ いわうつなみの おのれのみ くだけてものを おもうころかな

(訳)あまりに風が激しいので岩を打つ波が砕け散るように、私の心もくだけて思い悩んでいるこの頃よ。

(解説)
・「風をいたみ」・・あまりに風が激しいので


(作者)源重之(みなもとのしげゆき)。56代清和天皇のひ孫。63代冷泉天皇に仕えた。三十六歌仙の一人。地方官を歴任し、最後は陸奥国で没した。日本全国を旅して歌を詠んだ。