29. 心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花 / 凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
(読み)こころあてに おらばやおらん はつしもの おきまどわせる しらぎくのはな
(訳)慎重に折るなら折れるでしょうか。一面に降りた初霜で見分けが付かなくなっている白菊の花が。
(作者)凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)。三十六歌仙の一人。『古今集』の撰者の一人。
59代宇多天皇、60代醍醐天皇に仕えた。勅撰集に200首の歌が残る歌人。
百人一首の学びメモ
30. 有明けの つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし / 壬生忠岑(みぶのただみね)
(読み)ありあけの つれなくみえし わかれより あかつきばかり うきものはなし
(訳)明け方の月が冷ややかに空に残っていたように、あなたが冷たく見えた別れ以来、夜明けほど辛いものはありません。
(解説)
・暁(あかつき)・・午前3時ごろ、まだ暗い時間。
・有明の月・・旧暦の16日以降の、夜明け前の空に残る月。
(作者)壬生忠岑(みぶのただみね)。初の勅撰和歌集『古今和歌集』の撰者。
『忠岑十体(ただみねじゅったい)』(歌論集)を残す。
31. 朝ぼらけ 有明けの月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪 / 坂上是則(さかのうえのこれのり)
(読み)あさぼらけ ありあけのつきと みるまでに よしののさとに ふれるしらゆき
(訳)夜がほのぼのと明ける薄明りのころ、明け方の月で明るいのかと見間違うほどに吉野の里に雪が降り積もっています。
(解説)
・奈良・吉野を旅したときに宿で詠んだ歌。
・朝ぼらけ・・夜明け前のまだ暗い頃。あたりがほのかに明るくなるころ。
(作者)坂上是則。三十六歌仙の1人。蝦夷討伐の征夷大将軍・坂上田村麻呂の四代目の孫。蹴鞠が得意で60代醍醐天皇の前で206回蹴り上げ、褒美に絹をもらった。
<奈良・吉野>
・吉野はこの頃はまだ桜ではなく、雪という感じ。
・吉野は天武天皇が壬申の乱で挙兵した場所。持統天皇は吉野の地がお気に入りで33回訪れたという。
32. 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ もみぢなりけり / 春道列樹
やまがわに かぜのかけたる しがらみは ながれもあえぬ もみじなりけり(はるみちのつらき)
(訳)山あいを流れる川に風がかけた柵(しがらみ)は、流れたくとも流れていけない紅葉だったのだなあ。
(解説)
・山川(やまがわ)・・山あいを流れる小さな川
・京都から比叡山のふもとを通り、近江(滋賀県)に抜ける山道の途中に作った歌。
・上の句が問いで下の句が答えになっている。
・しがらみ(柵)を作ったのは人ではなく風だった、という擬人法が評価された。
(作者)春道列樹(はるみちのつらき)。910年頃、歴史を学ぶ文章生だった。この句で有名になった。
35. 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける / 紀貫之(きのつらゆき)
(読み)ひとはいさ こころもしらず ふるさとは はなぞむかしの かににおいける
(訳)あなたは、さあ、心変わりしているのかお心は分かりません。昔なじみのこの里では梅の花が昔と変わらず咲き誇っているのです。
(解説)
・大和(奈良)の初瀬・長谷寺(はせでら)へ行ったときに詠んだ歌。長谷寺は十一面観音で有名。(74)にも初瀬が出てくる。
(作者)紀貫之。紀友則(33「ひさかたの」)の従兄弟。『古今和歌集』の撰者。仮名序(仮名の序文)を書き、その中で六歌仙についても述べた。
『土佐日記』の作者。女性を装い、かな文字で書かれた日本最古の日記文学。
37. 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける / 文屋朝康(ふんやのあさやす)
(読み)しらつゆに かぜのふきしく あきののは つらぬきとめぬ たまぞちりける
(訳)風の吹く秋の野に、白く光る朝露。まるで糸を留めていない真珠が散り乱れているようだ。
(解説)
・「草の上の露」を「玉・真珠」に例えることはよくあったが「風に散る露=玉」を読んでいるところが新鮮。
・露(つゆ)は涙の例えとしても使われるため、「散る」という表現から恋が終わったことを表すのかも。
・『後撰集』の詞書(ことばがき)より。延喜の時代、60代醍醐天皇から求められて作った歌。
(作者)
文屋朝康(ふんやのあさやす)。父は文屋康秀(22「吹くからに」)。多くの歌合わせに参加した。
38. 忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな / 右近(うこん)
(読み)わすらるる みをばおもわず ちかいてし ひとのいのちの おしくもあるかな
(訳)忘れられた私のことはいいのです。愛の誓いを破ったあなたの身が心配です。
(解説)
・藤原敦忠(ふじわらのあつただ)(43.「逢い見ての」)に贈った歌。←敦忠は左大臣・藤原時平(菅原道真を大宰府へ左遷した)の息子。敦忠は実際に若くして38才で亡くなった。
(作者)右近(うこん)。右近衛少将・藤原孝縄(うこんのえしょうじょう・ふじわらのすえなわ)の娘。恋多き女流歌人。藤原敦忠(43)や元良親王(20)などと恋をしたと言われる。
60代醍醐天皇の皇后・穏子(おんし)に仕えた。『大和物語』にも恋愛模様が描かれている。