04後拾遺和歌集 – 百人一首note

42. 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波超さじとは / 清原元輔

42. 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波超さじとは/清原元輔(きよはらのもとすけ)

(読み)ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すえのまつやま なみこさじとは

(訳)約束しましたよね。涙にぬれた袖を絞りながら。末の松山を波が決して越さないように2人の愛も変わらないと。

(解説)
・末の松山・・陸奥国(宮城県)にある松の名所。多賀城市あたり。

・869年の貞観(じょうがん)地震の際も、波は末の松山を越えなかった。

・作者の清原元輔が代理で詠んだ。

・『古今集』の「君をおきて あだし心を わがもたば 末の松山 浪もこえなむ」を元にした。


(作者)清原元輔(きよはらのもとすけ)(908~990)。清少納言(62「夜を込めて」)の父。清原深養父( 36「夏の夜は」)の孫。

『後撰集』をまとめた「梨壺の五人」のうちの一人。三十六歌仙の一人。

 

50. 君がため をしからざりし 命さえ ながくもがなと 思ひけるかな / 藤原義孝


(月下美人)

50. 君がため をしからざりし 命さえ ながくもがなと 思ひけるかな / 藤原義孝

(読み)きみがため おしからざりし いのちさえ ながくもがなと おもいけるかな(ふじわらのよしたか)

(訳)あなたに逢うためならと惜しくなかったこの命。逢ってしまった今では長くあってほしいと願うようになったのです。

(解説)
・「君がため」・・あなたに逢うためなら

・「長くもがな」・・長くあってほしい「もがな」は願望

・後朝(きぬぎぬ)の歌。


(作者)藤原義孝(ふじわらのよしたか)。謙徳公(藤原伊尹・これただ)(45「あはれとも」)の三男。藤原行成(三蹟の一人)の父。まじめで仏教にも熱心。美しい容姿だったと言われる。21才で天然痘で亡くなる。

 

51. かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを / 藤原実方朝臣

(伊吹山)

51. かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを / 藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん)

(読み)かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ さしもしらじな もゆるおもいを

(訳)このように伝えることさえできないのですから、伊吹山のさしも草のようにそれほどのものとは知らないでしょうね。燃えるこの想いを。

(解説)
・さしも草・・ヨモギ。お灸に使われた。

・えやはいう・・言うことができようか。いやできない。

 


(作者)藤原実方朝臣。(ふじわらのさねかたあそん)。貞信公(藤原忠平)(26「小倉山」)のひ孫。66代一条天皇に仕えた。

光源氏のモデルの1人と言われている平安後期の色好み。(平安前期は在原業平。)

清少納言と恋仲?藤原行成と口論になり冠を叩きつけたため陸奥守に左遷。

 

52. 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なお恨めしき 朝ぼらけかな / 藤原道信朝臣

52. 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なお恨めしき 朝ぼらけかな / 藤原道信朝臣

あけぬれば くるるものとは しりながら なおうらめしき あさぼらけかな(ふじわらのみちのぶあそん)

(訳)夜が明けてしまえば日が暮れてまたあなたに会える。それを分かっていながらもやはり夜明けは恨めしい。

(解説)
・朝ぼらけ・・夜がほのぼの明けてくるころ

・雪の降った日に恋人のもとから帰ってきて詠んだ歌と『後拾遺集』にある。


(作者)藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん)。藤原為光の子。和歌に秀で、奥ゆかしい性格と伝わる。藤原公任らとも親しかった。藤原兼家の養子となる。23才の若さで亡くなる。

 

[藤原家家系図]

26. 藤原忠平(貞信公)
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藤原師輔
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45. 藤原伊尹(謙徳公)        藤原為光    藤原兼家
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50. 藤原義孝                ▶52. 藤原道信    藤原道長

 

56. あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今一たびの 逢ふこともがな / 和泉式部

56. あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今一たびの 逢ふこともがな / 和泉式部(いずみしきぶ)

(読み)あらざらん このよのほかの おもいでに いまひとたびの おうこともがな

(訳)私はもうすぐこの世を去るでしょう。あの世への思い出にせめて今一度お会いしたいものです。

(解説)
・最初の夫、橘道貞を思って詠んだ歌と言われる。


(作者)
和泉式部(いずみしきぶ)。橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚。娘は小式部内侍(60「大江山」)。大江雅致(まさむね)の娘。中宮・彰子(しょうし)に仕えた。

恋多き女性と言われ、結婚していながら、63代冷泉天皇の皇子、為尊(ためたか)親王や、弟の敦道親王と愛し合ったと言われる。夫とは離婚、父からは勘当される。

『和泉式部日記』は敦道親王の死を悼む歌が124首詠まれている。

66代一条天皇の中宮・彰子に仕えた。藤原保昌と再婚。

 

 

58. 有馬山 いなの笹原 風吹けば いでそよ人を わすれやはする / 大弐三位

58. 有馬山 いなの笹原 風吹けば いでそよ人を わすれやはする / 大弐三位(だいにのさんみ)

(読み)ありまやま いなのささはら かぜふけば いでそよひとを わすれやはする

(訳)有馬山から猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと音を立てます。そうよ、そうよ、どうして私があなたを忘れるでしょうか。


(作者)大弐三位(だいにのさんみ)。藤原賢子(かたこ)。母は紫式部・57「めぐりあいて」。後冷泉天皇の乳母となり従三位(じゅさんみ)に除せられた。

 

59. やすらはで 寝なましものを 小夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな / 赤染衛門

59. やすらはで 寝なましものを 小夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな / 赤染衛門(あかぞめえもん)

やすらわで ねなましものを さよふけて かたぶくまでの つきをみしかな

(訳)あなたが来ないと分かっていたら、ためらうことなく寝てしまったのに。あなたを待っているうちに夜がふけて西の空にかたむいて沈んでいく月をみたことです。

(解説)
・やすらはで・・ためらわないで。「やすらふ」は「ためらう」の意味。「で」は打消。

・「まし」は反実仮想。「もし~なら~なのに。」

・蔵人少将(くろうどのしょうしょう)藤原道隆に恋した妹の代わりに詠んだ歌。


(作者)
赤染衛門(あかぞめえもん)。父・赤染時用(ときもち)が衛門丞(えもんのじょう)のためこう呼ばれる。

道長の妻・倫子(りんし)や66代一条天皇の中宮・彰子(しょうし)に仕える。才女で優しい人柄であり、紫式部清少納言とも親しかったと言われる。『栄花物語』の作者。

夫は学者の大江匡衡(おおえのまさひら)。

62. 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ / 清少納言

(「逢坂の関」石碑)

62. 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関は許さじ / 清少納言(せいしょうなごん)

(読み)よをこめて とりのそらねは はかるとも よにおうさかの せきはゆるさじ

(訳)深夜ににわとりの鳴き声をして騙そうとしても、函谷関はともかく、逢坂の関は許しませんよ。ですから私に会いにくるのも許しません。

(解説)
・夜をこめて・・夜がまだ明けないうちに。「こむ」は中にしまう、つつみこむの意。

・よに~じ・・決して~ない。

・函谷関(かんこくかん)の孟嘗君の話を取り入れた。

・先に帰った藤原行成からのおわびの手紙に対して返した歌。


(作者)
清少納言(せいしょうなごん)。(966頃~1027頃)『枕草子』の作者。一条天皇の中宮、定子(ていし)に仕えた。

曾祖父は清原深養父(36「夏の夜は」)、父は清原元輔(42「契りきな」)。

 

63. 今はただ 思ひたえなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな / 左京大夫道雅

 (アネモネ 花言葉:恋の苦しみ)

63. 今はただ 思ひたえなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな / 左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)

(読み)いまはただ おもいたえなん とばかりを ひとづてならで いうよしもがな

(訳)今となってはただ「あなたを諦めます」ということだけを、人づてではなく直接お会いして言いたいのです。

(解説)
・三条院の皇女・当子内親王(とうしないしんのう)へ思いを寄せていたが、反対されて仲を引き裂かれてしまった。


(作者)
左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)。藤原道雅(ふじわらのみちまさ)。

失脚した藤原伊周(これちか)の息子。祖母は儀同三司母(54「忘れじの」)。のちに荒三位と呼ばれた。

 

65. 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ / 相模

(ハナニラ 花言葉:悲しい別れ)

65. 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ / 相模(さがみ)

(読み)うらみわび ほさぬそでだに あるものを こいにくちなむ なこそおしけれ

(訳)あなたを恨み、涙でかわく間もなく着物の袖が朽ちるのも悔しいのに、恋の噂のために私の評判まで落ちてしまうのが悔しくてなりません。

(解説)
・「~わぶ」は、動詞の連用形に付いて、その気力も失うの意味。「恨みわび」は「恨むのも疲れてしまった」

 


(作者)
相模(さがみ)。脩子内親王家(一条帝の皇女)に出仕し宮廷歌人として活躍。紫式部、和泉式部らと並び称された。相模守大江公資(きんすけ)の妻。

50代半ばで出席した歌合わせで詠まれた。それまでの恋愛経験を踏まえて詠んだ歌とされる。

父は源頼光で大江山の酒吞童子(しゅてんどうじ)を退治した伝説を持つ。