100hapidays01com – ページ 8 – 楽しく百人一首

62. 夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ/清少納言

62. 夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ/清少納言(せいしょうなごん)

よをこめて とりのそらねは はかるとも よにおうさかの せきはゆるさじ

(訳)深夜ににわとりの鳴き声をして騙そうとしても、函谷関はともかく、逢坂の関は許しませんよ。ですから私に会いにくるのも許しません。

(解説)
・函谷関(かんこくかん)の孟嘗君の話を取り入れた。

・先に帰った藤原行成からのおわびの手紙に対して返した歌。


(作者)
清少納言(せいしょうなごん)。清原なぎこ。「枕草子」の作者。一条天皇の中宮、定子(ていし)に仕えた。

曾祖父は清原深養父(36「夏の夜は」)、父は清原元輔(42「契りきな」)。

63. 今はただ思ひたえなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな/左京大夫道雅

63. 今はただ思ひたえなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな/左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)

いまはただ おもいたえなん とばかりを ひとづてならで いうよしもがな

(訳)今となってはただ「あなたを諦めます」ということだけを、人づてではなく直接お会いして言いたいのです。

(解説)
・三条院の皇女・当子内親王(とうしないしんのう)へ思いを寄せていたが、反対されて仲を引き裂かれてしまった。


(作者)
左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)。藤原道雅(ふじわらのみちまさ)。失脚した藤原伊周の息子。祖母は儀同三司母・54「忘れじの」。のちに荒三位と呼ばれた。

 

64. 朝ぼらけ宇治の川霧絶えだえに あらはれ渡る瀬々の網代木 / 権中納言定頼

64. 朝ぼらけ宇治の川霧絶えだえに あらはれ渡る瀬々の網代木 / 権中納言定頼

あさぼらけうじのかわぎりたえだえに あらわれわたるせぜのあじろぎ(ごんちゅうなごんさだより)

(訳)夜がほのぼのと明けてきて宇治川にかかった霧が途切れてくると現れてきたのは川の浅瀬にある網代木だった。

(解説)
・あじろぎ・・魚をとるしかけ

・平安時代には数少ない叙景歌。


(作者)
権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)。藤原定頼。和歌や書道、管弦が上手だった。父は大納言公任(55「滝の音は」)。小式部内侍をからかったが、60「大江山」で返された。

65. 恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ/相模

65. 恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ/相模(さがみ)

うらみわび ほさぬそでだに あるものを こいにくちなむ なこそおしけれ

(訳)あなたを恨み、涙でかわく間もなく着物の袖が朽ちるのも悔しいのに、恋の噂のために私の評判まで落ちてしまうのが悔しくてなりません。


(作者)
相模(さがみ)。50代半ばで出席した歌合わせで詠まれた。それまでの恋愛経験を踏まえて詠んだ歌とされる。

父は源頼光で大江山の酒吞童子(しゅてんどうじ)を退治した伝説を持つ。

66. もろともにあはれと思へ山ざくら 花よりほかに知る人もなし/前大僧正行尊

66. もろともにあはれと思へ山ざくら 花よりほかに知る人もなし/前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)

(読み)もろともに あはれとおもえ やまざくら はなよりほかに しるひともなし

(訳)山桜よ、私がお前をしみじみと懐かしく思うように、お前も私を懐かしく思っておくれ。お前のほかに私の心を知る人もいないのだから。

(解説)
・大峰山で修行中に山桜を見つけ詠んだ。


(作者)大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)。12才で出家。以後、天台宗・三井寺で厳しい修行を積む。

三条院(68「こころにも」)のひ孫。白河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇(77「せをはやみ」)に僧として仕えた。

 

67. 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ/周防内侍

67. 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ/周防内侍(すおうのないし)

(読み)はるのよの ゆめばかりなる たまくらに かいなくたたん なこそおしけれ

(訳)春の夜の夢のように短く儚い間でも、いたずらな気持ちで腕枕を借りたら、つまらない噂が立つでしょう。それはくやしいではないですか。

(解説)
・「枕がほしい」と言ったら藤原忠家が「どうぞ」と手を差し出した。この冗談に優雅に返した歌。


(作者)周防内侍(すおうのないし)。平仲子(たいらのちゅうし)。後冷泉天皇、白河天皇、堀河天皇、に内侍として仕えた。

68. 心にもあらで憂世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな/三条院

68. 心にもあらで憂世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな/三条院(さんじょういん)

(訳)心ならずもこのはかない現世で生きながらえていたならば、きっと恋しく思い出されるに違いない、この夜更けの月のことを。

(解説)
・三条院(さんじょういん)は、目を患ったことを理由に退位を迫られた。

・「夜半の月かな」は「めぐりあいて」の最後とも同じ。


(作者)三条院(さんじょういん)。67代三条天皇。63代・冷泉天皇の皇子。

宮中の二度の火事と目の病気を理由に、藤原道長の圧力で5年で退位させられた。

道長の孫(68代・後一条天皇)に位を譲った。

 

69. 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり/能因法師

69. 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり/能因法師(のういんほうし)

(読み)あらしふく みむろのやまの もみじばは たつたのかわの にしきなりけり

(訳)嵐が吹いて散らした奈良の三室山のもみじ葉が、龍田川の水面を覆いつくしてまるで錦織のように見事な風景です。


(作者)能因法師(のういんほうし)。30才のころ恋人をなくした悲しみで出家。全国を旅しながら歌を詠み、歌枕(歌に詠まれる土地)をまとめた。

70. さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづこも同じ秋の夕暮れ/良暹法師

70. さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづこも同じ秋の夕暮れ/良暹法師(りょうせんほうし)

(読み)さびしさに やどをたちいでて ながむれば いづこもおなじ あきのゆうぐれ

(訳)さびしさにたえかねて、家を出てあたりを眺めていると、どこも同じようにさびしい秋の夕暮れが広がっています。

(解説)
・「宿」・・旅館ではなく僧が住む粗末な家(庵・いおり)

・「秋の夕暮れ」は「新古今和歌集」の時代に流行した表現。「秋の夕暮れはさびしいもの」という印象が定着した。


(作者)良暹法師(りょうせんほうし)。比叡山の延暦寺の僧。後朱雀、後冷泉天皇の頃の人。

晩年は京都・大原の里や雲林院に暮らす。

「三夕(さんせき)の歌」・・『新古今集』
・「寂しさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ」(寂蓮)87
・「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」(西行)86
・「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家)97

71. 夕されば門田の稲葉おとづれて 葦のまろやに秋風ぞふく/大納言経信

71. 夕されば門田の稲葉おとづれて 葦のまろやに秋風ぞふく/大納言経信(だいなごんつねのぶ)

(読み)ゆうされば かどたのいなば おつずれて あしのまろやに あきかぜぞふく

(訳)夕方になると門の前に広がる田んぼの稲穂がさわさわと音を立てます。葦ぶきの小屋に秋風が吹いて気持ちのいいことですよ。

(解説)
・夕されば・・夕方になれば

・作者の感情を入れず、自然をありのままに詠んだ歌を「叙景歌」という。


(作者)大納言経信(だいなごんつねのぶ)。源経信。和歌・漢詩・管弦に優れ、藤原公任(55「たきのおとは」)とともに「三船の才(さんせんのさい)」と呼ばれた。