69. 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり/能因法師
(読み)あらしふくみむろのやまのもみじばは たつたのかわのにしきなりけり(のういんほうし)
(訳)嵐が吹いて散らした奈良の三室山のもみじ葉が、龍田川の水面を覆いつくしてまるで錦織のように見事な風景です。
(作者)能因法師(のういんほうし)。30才のころ恋人をなくした悲しみで出家。全国を旅しながら歌を詠み、歌枕(歌に詠まれる土地)をまとめた。
百人一首の学びメモ
70. さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづこも同じ秋の夕暮れ/良暹法師(りょうせんほうし)
(読み)さびしさに やどをたちいでて ながむれば いづこもおなじ あきのゆうぐれ
(訳)さびしさにたえかねて、家を出てあたりを眺めていると、どこも同じようにさびしい秋の夕暮れが広がっています。
(解説)
・「宿」・・旅館ではなく僧が住む粗末な家(庵・いおり)
・「秋の夕暮れ」は「新古今和歌集」の時代に流行した表現。「秋の夕暮れはさびしいもの」という印象が定着した。
(作者)良暹法師(りょうせんほうし)。比叡山の延暦寺の僧。後朱雀、後冷泉天皇の頃の人。
晩年は京都・大原の里や雲林院に暮らす。
「三夕(さんせき)の歌」・・『新古今集』
・「寂しさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ」(寂蓮)87
・「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」(西行)86
・「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家)97
71. 夕されば門田の稲葉おとづれて 葦のまろやに秋風ぞふく/大納言経信
(読み)ゆうさればかどたのいなばおとずれて あしのまろやにあきかぜぞふく(だいなごんつねのぶ)
(訳)夕方になると門の前に広がる田んぼの稲穂がさわさわと音を立てます。葦ぶきの小屋に秋風が吹いて気持ちのいいことですよ。
(解説)
・夕されば・・夕方になれば
・作者の感情を入れず、自然をありのままに詠んだ歌を「叙景歌」という。
(作者)大納言経信(だいなごんつねのぶ)。源経信。和歌・漢詩・管弦に優れ、藤原公任(55「たきのおとは」)とともに「三船の才(さんせんのさい)」と呼ばれた。
87. 村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ / 寂蓮法師(じゃくれんほうし)
(読み)むらさめの つゆもまだいぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆうぐれ
(訳)にわか雨が降ってきて、そのしずくもまだ乾ききらない杉や槇の葉に、霧が立ち上っている秋の夕暮れだなあ。
(解説)
・水墨画を眺めているような幻想的な秋の情景。
・村雨(むらさめ)・・秋から冬にかけて降る激しいにわか雨。
・まだひぬ・・まだ乾かない
(作者)寂蓮法師(じゃくれんほうし)。藤原定長(さだなが)。『新古今集』撰者だが完成前に亡くなる。
幼少期に藤原俊成の養子となるが、実子の藤原定家が生まれたあと30代で出家。
『新古今集』の三夕(さんせき)の一首、「寂しさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ」の歌もある。
91. きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む / 後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)
(読み)きりぎりす なくやしもよの さむしろに ころもかたしき ひとりかもねん
(訳)こおろぎが鳴いている霜の降りた夜、寒々としたむしろに着物の片袖を敷いて、独り寝するのだろうか。
(解説)
・霜の降りた夜の独り寝のわびしさ
・妻に先立たれた辛い思いをこの歌に詠んだ。
・(3)「あしびきの」の本歌取。
(作者)後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)。藤原(九条)良経。
『新古今集』の撰者の一人で仮名序を執筆。家集『秋篠月清集(あきしのげっせいしゅう)』。38才で亡くなる。
父は藤原(九条)兼実(かねざね)、祖父は藤原忠道(76「わたのはら 漕ぎいでて」)、叔父は慈円(95)。
(七十二候・閉塞成冬(そらさむくふゆとなる))
片山に入り日のかげはさしながら しぐるともなき冬の夕暮れ(藤原良経)
94. み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣打つなり / 参議雅経(さんぎまさつね)
(読み)みよしのの やまのあきかぜ さよふけて ふるさとさむく ころもうつなり
(訳)吉野の山の秋風が吹くころ、夜も更けて、この古い里は寒さが身にしみて、寒々と衣を打つ音が聴こえてくる。
(解説)
・山に響く衣を打つ音の寂しさ
・坂上是則(31「朝ぼらけ」)の歌をもとに詠んだ本歌取りの歌。
「み吉野の 山の白雪 つもるらし ふるさと寒く なりまさるなり」。
・衣を打つ、砧(きぬた・木槌)の響きは漢詩(李白)の世界から取り込まれた情趣。
(作者)参議雅経(さんぎまさつね)。藤原雅経。『新古今和歌集』の撰者の一人。
けまりの名門・飛鳥井家を興した。(本歌取りの元の歌、坂上是則も蹴鞠の名手であった)。後鳥羽上皇より「蹴鞠長者」と評される。