部立 – ページ 10 – 楽しく百人一首

91.きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む/後京極摂政前太政大臣

91.きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む/後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)

きりぎりす なくやしもよの さむしろに ころもかたしき ひとりかもねん

(訳)こおろぎが鳴いている霜の降りた夜、寒々としたむしろに着物の片袖を敷いて、独り寝するのだろうか。

(解説)
・霜の降りた夜の独り寝のわびしさ

・妻に先立たれた辛い思いをこの歌に詠んだ。


(作者)後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)。藤原良経。『新古今集』の撰者となる。

父は藤原兼実。祖父は藤原忠道(76「わたのはら 漕ぎいでて」)。

 

片山に入り日のかげはさしながら しぐるともなき冬の夕暮れ(閉塞成冬/七十二候)

 

 

92. わが袖は潮干にみえぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし/二条院讃岐

92. わが袖は潮干にみえぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし/二条院讃岐(にじょういんのさぬき)

わがそでは しおひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらね かわくまもなし

(訳)私の着物の袖は、引き潮の時にも見えない沖の石のように、人には知られないけれど、悲しみの涙で乾く暇もありません。

(解説)
・片想いの嘆き


(作者)二条院讃岐(にじょういんのさぬき)。この歌が評判となり「沖の石の讃岐」と呼ばれるようになった。源頼政の娘。78代二条天皇に仕えた。

93.世の中は常にもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも/鎌倉右大臣

93.世の中は常にもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも/鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)

よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのおぶねの つなでかなしも

(訳)世の中がずっと変わらないでいてほしい。海辺近くで漁師の小さな船の引き綱を引いている姿は、しみじみといとおしく感じられるなあ。


(作者)鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)。源実朝(みなもとのさねとも)。12才で鎌倉幕府3代将軍となる。父源頼朝、母北条政子、兄源頼家。

歌人。藤原定家が和歌を教える。歌集「金塊和歌集」を残す。28才で甥の公卿に暗殺される。

94. み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣打つなり/参議雅経

94. み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣打つなり/参議雅経

みよしのの やまのあきかぜ さよふけて ふるさとさむく ころもうつなり(さんぎまさつね)

(訳)吉野の山の秋風が吹くころ、夜も更けて、この古い里は寒さが身にしみて、寒々と衣を打つ音が聴こえてくる。

(解説)
・山に響く衣を打つ音の寂しさ

・坂上是則(31「朝ぼらけ」)の歌をもとに詠んだ本歌取りの歌。
「み吉野の 山の白雪 つもるらし ふるさと寒く なりまさるなり」。


(作者)参議雅経(さんぎまさつね)。藤原雅経。「新古今和歌集」の撰者。けまりの名門・飛鳥井家を興した。(本歌取りの元の歌、坂上是則も蹴鞠の名手であった。)

95. おほけなくうき世の民におほふかな わがたつ杣にすみぞめのそで/前大僧正慈円

95. おほけなくうき世の民におほふかな わがたつ杣にすみぞめのそで/前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)

おおけなく うきよのたみに おおうかな わがたつそまに すみぞめのそで

(訳)分不相応ではあるけれど、辛いこの世を生きる人々に覆いかけたいものだ。私が住みはじめた比叡山での仏の祈りを。

(解説)
・世の人のために仏の加護を願う心


(作者)前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)。父は藤原忠通(76「わたのはら こ」)。兄は九条兼実(くじょうかねざね)。 歴史書「愚管抄」の作者。14歳で出家し天台座主に四度なる。

96.花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり/入道前太政大臣

96.花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり/入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)

はなさそう あらしのにわの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり

(訳)桜が咲き散るように誘う山嵐が吹いている庭にいて、ふりゆくものといえば雪なのではなく、老いていく私の身なのだ。

(解説)
・落花に自らの老いを重ねて嘆く


(作者)入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)。藤原公経(ふじわらのきんつね)。藤原定家の妻の弟。

公経の妻は源頼家の親戚だったため、承久の乱では鎌倉幕府に味方した。孫の頼経が将軍となり、朝廷でも重んじられた。

97. 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの身もこがれつつ/権中納言定家

97.来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの身もこがれつつ/権中納言定家(ごんちゅうなごんていか)

こぬひとを まつほのうらの ゆうなぎに やくやもしおの みもこがれつつ

(訳)来ないひとを待つ私は、松帆の浦(淡路島の北端)の夕なぎのときに焼いている藻塩のように、身も焦がれるほどに恋しているのですよ。

(解説)
・いつまでも待っている女性の心


(作者)権中納言定家(ごんちゅうなごんていか)。藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)。百人一首の撰者。「新古今和歌集」の撰者。「明月記」という漢文で書いた日記も残す。

式子内親王(89「玉のをよ」)に憧れを抱く。

父は皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)(83「世の中よ」)。

 

98. 風そよぐならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける/従二位家隆

98. 風そよぐならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける/従二位家隆(じゅにいいえたか)

かぜそよぐ ならのおがわの ゆうぐれは みそぎぞなつの しるしなりける

(訳)風がそよそよと音を立てて楢の葉に吹きそよぐ、ならの小川の夕暮れは、夏越しのみそぎの行事だけが、夏であることのしるしなのだなあ。

(解説)
・年中行事の一つ「水無月ばらえ」。川で身を清め、罪や穢れをはらう。旧暦6月29日(現在の8月7日ごろ)。次の日から秋(立秋)になるので「夏越しのはらえ」とも言う。

・「ならの小川」は奈良ではなく、京都・北区の上賀茂(かみがも)神社の境内を流れる御手洗川(みたらしがわ)のこと。


(作者)従二位家隆(じゅにいいえたか)。藤原家隆。藤原定家のライバル。定家は「火」、家隆は「水」を詠った。

「新古今集」の撰者のひとり。妻は寂蓮法師(87「むらさめの」)の娘。寂蓮法師は義父にあたる。

家隆は後鳥羽院(99「ひともおし」)が隠岐に流されたあとも文通を続けた。

 

99. 人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふゆえに物思ふ身は/後鳥羽院

99. 人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふゆえに物思ふ身は/後鳥羽院(ごとばいん)

ひともおし ひともうらめし あじきなく よをおもうゆえに ものおもうみは

(訳)人を愛おしく思ったり、人を恨めしく思ったり。つまらないと世を思うせいであれこれ思い悩む身となっては。

(解説)
・思い悩みながら生きる嘆き


(作者)後鳥羽院(ごとばいん)。82代天皇。後鳥羽上皇。81代安徳天皇が平氏と共に都落ちしたのち4歳で即位。

藤原家定に「新古今和歌集」を撰ばせた。この歌を詠んだ9年後の1221年、倒幕をもくろみ、承久の乱を起こしたが破れ、隠岐の島に流される。息子は順徳院(100「ももしきや」

貴族の時代(平安)が終わり、武士の時代(鎌倉)が始まろうとしていた。

100. 百敷やふるき軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり/順徳院

100. 百敷やふるき軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり/順徳院(じゅんとくいん)

(読み)ももしきや ふるきのきばの しのぶにも なおあまりける むかしなりけり

(訳)宮中の古い軒端の下に生えている忍草を見ると、やはりしのぶにもしのびつくせないのは、栄えていた昔のことであるよ。

(解説)
・栄えていた時代を懐かしむ心

・ももしきや・・宮中。「大宮」にかかる枕詞だった。

・軒端(のきば)・・屋根の下の方のはじ


(作者)順徳院(じゅんとくいん)。84代天皇。詩歌・音楽に没頭。後鳥羽院(99「人もおし」)の皇子。歌論書「八雲御抄(やくもみしょう)」を記した。

和歌を藤原定家に習う。1216年、20歳のときにこの歌を詠み、5年後の1221年承久の乱で後鳥羽院と共に流刑。父は隠岐島、息子は佐渡に。