恋 – ページ 5 – 百人一首note

90. 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色は変はらず / 殷富門院大輔

90. 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色は変はらず / 殷富門院大輔

(読み)みせばやな おじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかわらず(いんぷもんいんのたいふ)

(訳)お見せしたいものです。雄島の漁師の袖でさえも、波に濡れに濡れてそれでも色は変わらなかったというのに。

(解説)
・雄島は日本三景の一つ宮城・松島にある島。歌枕。

・源重之(48「風をいたみ」)作の「松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくは濡れしか」からの本歌取り。

・血涙(紅涙)という表現は漢詩文の影響


(作者)殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)。藤原信成の娘。殷富門院(式子内親王の姉)に仕えた。

多作であったことから「千首大輔」の異名がある。西行や寂蓮とも歌のやりとりをした。

92. わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし / 二条院讃岐

 

92. わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし / 二条院讃岐

わがそでは しおひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらね かわくまもなし(にじょういんのさぬき)

(訳)私の着物の袖は、引き潮の時にも見えない沖の石のように、人には知られないけれど、悲しみの涙で乾く暇もありません。

(解説)
・片想いの嘆き

・和泉式部の歌の本歌取。
「わが袖は水の下なる石なれや人に知られでかわく間もなし」


(作者)二条院讃岐(にじょういんのさぬき)。この歌が評判となり「沖の石の讃岐」と呼ばれるようになった。源頼政の娘。78代二条天皇に仕えたあと、後鳥羽院(99)の中宮、宜秋門院任子に使える。

俊恵(85)の催した歌林苑にも参加した。

97. 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ / 権中納言定家

97. 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ / 権中納言定家(ごんちゅうなごんていか)

(読み)こぬひとを まつほのうらの ゆうなぎに やくやもしおの みもこがれつつ

(訳)来ないひとを待つ私は、松帆の浦(淡路島の北端)の夕なぎのときに焼いている藻塩のように、身も焦がれるほどに恋しているのですよ。

(解説)
・いつまでも待っている女性の心。わが身が恋いこがれる意に、藻塩が焼けこげる意を掛けている。

・万葉集からの本歌取の歌。

・「まつ」は「松帆の浦」と「待つ」の掛詞。

・「焼く」「藻塩」「こがれ」は縁語。

・「まつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の」までが「こがれ」を導き出す序詞(じょことば)。


(作者)権中納言定家(ごんちゅうなごんていか)。藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)。(1162~1241・享年79)。百人一首の撰者。

『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の撰者。俊成の「幽玄」を深化させ「有心体(うしんたい・妖艶な余情美)」を理想とした。

漢文の日記『明月記』、歌論書『近代秀歌』など。

式子内親王(89「玉のをよ」)に憧れを抱く。

父は皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)(83「世の中よ」)。