恋 – ページ 4 – 楽しく百人一首

65. 恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ/相模

65. 恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ/相模(さがみ)

うらみわび ほさぬそでだに あるものを こいにくちなむ なこそおしけれ

(訳)あなたを恨み、涙でかわく間もなく着物の袖が朽ちるのも悔しいのに、恋の噂のために私の評判まで落ちてしまうのが悔しくてなりません。


(作者)
相模(さがみ)。50代半ばで出席した歌合わせで詠まれた。それまでの恋愛経験を踏まえて詠んだ歌とされる。

父は源頼光で大江山の酒吞童子(しゅてんどうじ)を退治した伝説を持つ。

72. 音にきく高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ/祐子内親王家紀伊

72. 音にきく高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ/祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)

おとにきく たかしのはまの あだなみは かけじやそでの ぬれもこそすれ

(訳)噂に名高い高師の浜の気まぐれな波のように、浮気者で名高いあなたの言葉は心にかけないように。涙で袖が濡れてしまいますから。

(解説)
・1201年 堀河上皇開催の「艶書合(えんしょあわせ/けそうぶみあわせ)」で詠まれた。

・このとき紀伊は70才。お相手は29才の中納言・藤原俊忠。


(作者)祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)。後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕えた。

 

74. 憂かりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを/源俊頼朝臣

74. 憂かりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを/源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)

(読み)うかりける ひとをはつせの やまおろしよ はげしかれとは いのらぬものを

(訳)つれなかったあの人が振り向いてくれるようにと観音様にお祈りしたのに、初瀬の山おろしよ、お前のように辛くあたれとは祈らなかったのに。

(解説)
・奈良・初瀬の長谷寺は恋の願いが叶うと有名。十一面観音がある。

 


(作者)源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)。源経信(つねのぶ)(71「夕されば」)の息子。俊恵法師(85「夜もすがら」)の父。

音楽の才能があり白河上皇の命で「金葉和歌集」をまとめた。

「新風(しんぷう)」と呼ばれたその歌風は、藤原俊成しゅんぜい(83「よのなかよ」)にも受け継がれた。

曾禰好忠(そねのよしただ)の46「ゆらのとを」を本歌取りして、好忠へのリスペクトを表明した。

 

77. 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあわむとぞ思ふ/崇徳院

77. 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあわむとぞ思ふ/崇徳院(すとくいん)

(読み)せをはやみ いわにせかるる たきがわの われてもすえに あわんとぞおもう

(訳)川瀬の急流が岩にせきとめられて分かれても、また下流で合わさるように、今2人が別れても将来再び逢おうと思う。


(作者)崇徳院(すとくいん)

第75代天皇。崇徳上皇。

和歌が好きでよく歌の会を開いた。父の鳥羽院からは自分の子でないため愛されなかった。

1156年・保元(ほうげん)の乱で、弟の後白河天皇に敗北し、讃岐国(さぬきのくに)に流された。

(藤原頼長、源為義・為朝らと組んだ。)

80. ながからむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ/待賢門院堀河

80. ながからむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ/待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)

(読み)ながからん こころもしらず くろかみの みだれてけさは ものをこそおもえ

(訳)末長く愛し続けようというあなたの気持ちが本当か分からず、お別れした今朝は、黒髪が乱れるように心が乱れて、もの思いに沈んでいます。

(解説)
・「後朝(きぬぎぬ)の歌」に対する返歌。

・ながからむ・・末永く愛し続けようという。


(作者)待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)。待賢門院璋子に仕え、堀河(ほりかわ)と呼ばれた。

※待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)は、鳥羽天皇の皇后で、崇徳院、後白河上皇の母。

 

82. 思ひわびさても命はあるものを 憂きにたへぬは涙なりけり/道因法師

82. 思ひわびさても命はあるものを 憂きにたへぬは涙なりけり/道因法師(どういんほうし)

おもいわび さてもいのちは あるものを うきにたえぬは なみだなりけり

(訳)思い悩んでいてそれでも命はあるのに、辛さにこらえきれないのは涙なのだなあ。

(解説)
・命と涙。自分ではコントロールできない二つを比べて表現している。

65「うらみわび」の歌と、「〜わび」・「あるものを」の部分が共通している。


(作者)道因法師(どういんほうし)。藤原敦頼(あつより)。崇徳院(77「せをはやみ」)に仕えた。

80歳で出家。80代になってからも秀歌ができるよう住吉神社にお参りしたり、90代で歌会にも参加するなど歌道に熱心だった。

85. 夜もすがらもの思ふころは明けやらで ねやのひまさへつれなかりけり/俊恵法師

85. 夜もすがらもの思ふころは明けやらで ねやのひまさへつれなかりけり/俊恵法師(しゅんえほうし)

よもすがら ものおもうころは あけやらで ねやのひまさえ つれなかりけり

(訳)一晩中思い悩んでいるこの頃は、夜もなかなか明けきらないで、寝室の板戸の隙間までもが冷淡に思えるのですよ。

(解説)
・夜もすがら・・一晩中

・女性になりきって詠っている。


(作者)俊恵法師(しゅんえほうし)。歌人で文学者。東大寺の僧になった。「方丈記」鴨長明の師。 74「うかりける」源俊頼(としより)の息子。歌林苑(かりんえん)という和歌のサロンなどを開く。

 

86.嘆けとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな/西行法師

86.嘆けとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな/西行法師(さいぎょうほうし)

なげけとて つきやはものを おもわする かこちがおなる わがなみだかな

(訳)嘆けといって、月は物思いをさせるのだろうか。いや、そうではないのに、月にかこつけて恨めしそうに落ちてくる私の涙よ。

(解説)
・「月前恋(げつぜんのこい)」というお題で詠まれた。恋の切なさ。


(作者)西行法師(さいぎょうほうし)。佐藤義清(さとうのりきよ)。鳥羽院を警護する北面の武士だったが23才で妻子と別れて出家。生涯旅をして過ごした。

各地を旅して『山家集(さんかしゅう)』(1570首)『西行上人集』などの歌集を残す。『新古今和歌集』には94首もの西行の和歌が選ばれている。

83「よのなかよ」の藤原俊成とも親しく、俊成の歌は西行の出家も影響しているといわれる。

「願わくは花のもとにて春死なん その如月の望月のころ」(ねがわくははなのもとにてはるしなん そのきさらぎのもちづきのころ)という自分の和歌のとおり2月(如月)16日(望月=満月)に亡くなった。

釈迦の入滅が2月15日で同じ頃にと望んだ。現在でいうと3月後半ごろなのでまさに花(桜)の時期。

 

88. 難波江の葦のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき/皇嘉門院別当

88. 難波江の葦のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき/皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)

なにわえの あしのかりねの ひとよゆえ みをつくしてや こいわたるべき

(訳)なにわの入り江の芦の刈り根の一節(ひとよ)のような、仮寝の一夜をあなたと過ごしたせいで、澪標(みをつくし)のように身を尽くして恋し続けるのでしょうか。

(解説)
・摂政・藤原兼実の歌合で「旅宿逢恋」という題で詠まれた。遊女の心を想像して詠んだ。一夜限りゆえに思い悩む恋を表現。

20「わびぬれば」元良親王の本歌取り。


(作者)皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)。源敏隆の娘。崇徳院(77「せをはやみ」)の皇后である皇嘉門院に仕え、別当(女官長)と呼ばれた。

89. 玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする/式子内親王

89. 玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする/式子内親王(しょくしないしんのう)

たまのおよ たえねばたえ ながらえば しのぶることの よわりもぞする

(訳)命よ。絶えてしまうなら絶えておくれ。このまま生きたならば恋心をこらえる気持ちが弱ってしまい人目につくと困るから。

(解説)
・人目を忍ぶ恋


(作者)式子内親王(しょくしないしんのう)。後白河天皇の第3皇女、賀茂の斎院。

藤原俊成(83「よのなかよ」)や、息子の定家(97「来ぬ人を」)から、歌の指導を受けた。10歳年下の定家への思いを詠んだ歌とされる。