出典 – ページ 3 – 楽しく百人一首

21. いま来むといひしばかりに長月の ありあけの月を待ち出でつるかな/素性法師

21. いま来むといひしばかりに長月の ありあけの月を待ち出でつるかな/素性法師(そせいほうし)

いまこんと いいしばかりに ながつきの ありあけのつきを まちいでつるかな

(訳)「すぐ来るよ」とあなたが言ったから待っていたのに長月の明け方の月が出るまで待ちあかしてしまったわ。

(解説)
・長月・・九月

・有明の月・・明け方に残る月

・「一晩中待った」という「一夜説」と、春から秋まで、長月(9月)まで数ヶ月も待ったという「月来説(つきごろせつ)」がある。

・女性の気持ちになって詠んだ歌。


(作者)素性法師(そせいほうし)。良岑玄利(よしみねのはるとし)。三十六歌仙の1人。12「あまつかぜ」僧正遍照の息子。書家としても有名。56代・清和天皇に仕えた。

 

22. 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ/文屋康秀

22. 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ/文屋康秀(ふんやのやすひで)

ふくからに あきのくさきの しおるれば むべやまかぜを あらしというらん

(訳)
ふきおろすとすぐに秋の草木がしおれてしまうので、なるほどそれで山からの風を荒々しい嵐というのであろうか。

(解説)
・「吹くからに」・・吹くとすぐに

・「むべ」・・なるほど


(作者)
文屋康秀(ふんやのやすひで)。六歌仙三十六歌仙の1人。下級官吏の官人。

三河(愛知県)に赴任する際に小野小町(9「花の色は」)を誘ったと言われる。

37「しらつゆに」の文屋朝康(ふんやのあさやす)の父。

23. 月見ればちぢに物こそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど/大江千里

23. 月見ればちぢに物こそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど/大江千里(おおえのちさと)

つきみれば ちぢにものこそ かなしけれ わがみひとつの あきにはあらねど

(訳)
月を見ればあれこれ物悲しくなってしまうなあ。(白楽天のように)私一人だけの秋ではないのだけれど。

(解説)
・唐の詩人・白楽天の「白氏文集(はくしもんじゅう)」にある漢詩を元に詠まれた。「秋の夜は自分一人のためにだけ長い」

・漢詩を和歌にアレンジして詠むのが得意だった。


(作者)
大江千里(おおえのちさと)。平安初期の漢学者・大江音人(おおえのおとんど)の息子。

在原業平(17)、在原行平(16)の甥っ子。菅原道真(24)と並ぶ漢学者。阿保親王のひ孫。文章博士(もんじょうはかせ)。

 

(参考)
白楽天『白氏文集』の『燕子楼(えんしろう)』という詩。

燕子楼中霜月夜 秋来只為一人長
えんしろうちゅうそうげつのよる、あききたってただひとりのためにながし

燕子楼で長年一人暮らしていた、死亡した国司の愛妓が、月の美しい秋寒の夜に「残されたわたし一人のため、こうも秋の夜は長いのか」と詠んだ。

 

24. このたびはぬさもとりあへず手向山 もみぢの錦神のまにまに/菅家

24. このたびはぬさもとりあへず手向山 もみぢの錦神のまにまに/菅家(かんけ)

このたびは ぬさもとりあえず たむけやま もみじのにしき かみのまにまに

(訳)今度の旅ではお供えする幣も用意できていません。手向山の美しい紅葉を幣の代わりにするので神の御心にお任せします。

(解説)
・898年10月、59代・宇多天皇のお供をして吉野の宮滝へ行き、奈良坂へさしかかったときの歌。


(作者)
菅家(かんけ)は尊称。菅原道真(すがわらのみちざね)。優れた学者、大物政治家。59代宇多天皇に重用され、右大臣にまで登った。

遣唐使の廃止を提案。(参議篁(11「わたのはらや)が最初に提案)。901年、無実の罪で藤原時平に大宰府に左遷される。

九州太宰府を始め全国の天満宮で天神様、学問の神様として信仰を集める。

 

(参考)
「応天の門」灰原薬

 

25. 名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな/三条右大臣

25. 名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな/三条右大臣(さんじょううだいじん)

なにしおわば おうさかやまの さねかずら ひとにしられで くるよしもがな

(訳)その名前を負うなら逢坂山のさねかずらよ。たぐりよせて人に知られずに会えたらいいのに。

(解説)
・「もがな」・・~ならいいのに(願望)

・逢坂山は山城国(京都)と近江国(滋賀)の境界にある山。


(作者)
三条右大臣(さんじょううだいじん)。藤原定方(ふじわらのさだかた)。京都・三条に屋敷があった。和歌や管弦にすぐれ女性に人気があった。

いとこの藤原兼輔(27「みかの原」)とともに、醍醐朝の歌壇のパトロン的存在であり、紀貫之(35「人はいさ」)らを支援した。

 

さねかずら

26. 小倉山峰のもみじ葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ/貞信公

26. 小倉山峰のもみじ葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ/貞信公(ていしんこう)

おぐらやま みねのもみじば こころあらば いまひとたびの みゆきまたなん

(訳)小倉山の紅葉よ、もしもののあわれを分かる心があるならば、もう一度天皇の行幸(みゆき)まで散らずに待っていてほしい

(解説)
・小倉山・・京都市右京区嵯峨にあるもみじの名所

・宇多上皇の御幸(みゆき)の際に「息子の醍醐天皇にも見せたい」と言われたのを受けて詠んだ。

・醍醐天皇はこのあと小倉山に行幸された。これ以降、小倉山への天皇の行幸が恒例となり紅葉の名所となった。


(作者)
貞信公(ていしんこう)。藤原忠平(ふじわらのただひら)。藤原基経の三男。温厚な性格。60代醍醐・61代朱雀天皇に仕える。摂政、太政大臣、関白となる。

時平、仲平、忠平の3兄弟は三平(さんひら)と呼ばれ、藤原氏繁栄の基礎を築いた。

 

 

27. みかの原わきて流るるいづみ川 いつ見きとてか恋しかるらむ/中納言兼輔

27. みかの原わきて流るるいづみ川 いつ見きとてか恋しかるらむ/中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ)

みかのはら わきてながるる いずみがわ いつみきとてか こいしかるらん

(訳)みかの原を分けて湧き流れる泉川の名のように、あなたをいつ見たということでこんなに恋しいのだろうか

(解説)
・まだ逢ったことのない人への恋心がつのる歌。

・泉川・・現在の木津川


(作者)
中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ)。藤原兼輔。三十六歌仙の1人。堤(つつみ)中納言と呼ばれた。

藤原冬嗣のひ孫。藤原為時の祖父。紫式部(「57めぐりあいて」)の曽祖父(ひいおじいちゃん)。

いとこの三条右大臣・藤原定方(25「名にしおはば」)とともに、醍醐朝の歌壇を支えた。

 

2024大河ドラマ「光る君へ」第2回
「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」
(訳)子を持つ親の心は闇というわけではないが、子どものことになると道に迷ったようにうろたえるものです。

 

28. 山里は冬ぞさびしさまさりける 人目も草もかれぬと思へば/源宗于朝臣

28. 山里は冬ぞさびしさまさりける 人目も草もかれぬと思へば/源宗于朝臣(みなもとのむねゆきあそん)

やまざとは ふゆぞさびしさ まさりける ひとめもくさも かれぬとおもえば

(訳)山里はとりわけ冬がさびしさがまさって感じられるものです。訪ねてくる人もなく、草木も枯れてしまうことを思うと。


(作者)
源宗于朝臣(みなもとのむねゆきあそん)。三十六歌仙の1人。光孝天皇15「君がため春」の孫。臣籍に降り源性になる。古今集(古今和歌集)に15首の歌が残る。

 

 

29. 心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花/凡河内躬恒

29. 心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花/凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)

こころあてに おらばやおらん はつしもの おきまどわせる しらぎくのはな

(訳)慎重に折るなら折れるでしょうか。一面に降りた初霜で見分けがつなかくなっている白菊の花が。


(作者)
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)。三十六歌仙の1人。「古今集」の撰者。59代宇多天皇、60代醍醐天皇に仕えた。勅撰集に200首の歌が残る歌人。

30. 有明けのつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし/壬生忠岑

30. 有明けのつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし/壬生忠岑(みぶのただみね)

ありあけの つれなくみえし わかれより あかつきばかり うきものはなし

(訳)
明け方の月が冷ややかに空に残っていたように、あなたが冷たく見えた別れ以来、夜明けほど辛いものはありません。

(解説)
・暁(あかつき)・・午前3時ごろ、まだ暗い時間。

・有明の月・・旧暦の16日以降の、夜明け前の空に残る月。


(作者)
壬生忠岑(みぶのただみね)。初の勅撰和歌集「古今和歌集」の撰者。壬生忠見41「恋すてふ」の父。三十六歌仙の一人。

『忠岑十体(ただみねじゅったい)』(歌論集)を残す。