百人一首note – ページ 3 – 百人一首の学びメモ

11. わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまの釣舟 / 参議篁

11. わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまの釣舟 / 参議篁(さんぎたかむら)

(読み)わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね

(訳)大海原に浮かぶたくさんの島をめざして漕ぎ出していったと、人には伝えておくれ。漁師の釣り舟よ。

(解説)
・わたの原・・大海原

・八十島・・たくさんの島

・あま・・漁師


(作者)参議篁(さんぎたかむら)(802~852)。小野篁(おののたかむら)。小野妹子の子孫。漢詩や学問にすぐれた学者。21才で文章生(もんじょうしょう)になる。

承和5年(838年)、優秀で36才で遣唐副使に選ばれるも、壊れた船をあてがわれたため仮病で乗船拒否。

さらに遣唐使を批判する詩を書いて52代・嵯峨上皇を怒らせてしまい、隠岐に流される。2年後、54代・仁明天皇に許されて都に戻り、参議にすすんだ。

昼は官僚、夜は閻魔大王の相談役という二刀流をこなした人物とも伝えられる。

 

12. 天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ / 僧正遍昭

12. 天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ / 僧正遍昭(そうじょうへんじょう)

(読み)あまつかぜ くものかよいじ ふきとじよ おとめのすがた しばしとどめん

(訳)大空を吹く風よ。雲の中の天への通路を吹き閉ざしておくれ。天女たちの姿をもうしばらくとどめておきたいから。

(解説)
・天つ風・・天の風。空を吹く風よ。「つ」は「の」の意味。

・をとめの姿・・この「をとめ」は「天つ乙女」の意味で天女をさす。五節の舞姫を天女に見立てた表現。

・11月中旬、宮中行事の「豊明の節会(とよあかりのせちえ)」(=天皇が新米を食べる儀式)の「五節の舞姫(ごせちのまいひめ)」を見て詠んだ歌。


五節の舞姫


(作者)僧正遍昭(そうじょうへんじょう)。良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。

六歌仙三十六歌仙の一人。平安京を開いた50代・桓武天皇の孫。良岑安世(よしみねのやすよ)の息子。素性法師(21「いま来むと」)の父。

54代・仁明天皇(833年)に仕え「良少将」「深草少将」と呼ばれた。仁明天皇崩御のあと、35才で比叡山にのぼり出家。僧正は僧侶の中で最も高い位。元慶寺を創設。

美男としても知られ、小野小町(9「花の色は」)とも親しかった。

 

13. 筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる / 陽成院

(筑波山)

13. 筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる / 陽成院(ようぜいいん)

(読み)つくばねの みねよりおつる みなのがわ こいぞつもりて ふちとなりぬる

(訳)筑波峯のてっぺんから段々と流れ落ちるみなの川のように、私の恋心も積もって深い淵のようになったよ。

(解説)
・筑波山(つくばさん)(常陸国・ひたちのくに・茨城県)・・男体山(なんたいさん)と女体山(にょたいさん)という二つの峯からなる恋の歌の名所。「西の富士、東の筑波」と言われた。

・みなの川・・筑波山から流れる川。「男女川」とも書く。

・淵・・流れが緩やかになって深くなったところ。

・綏子内親王(すいしないしんのう)に当てて書いた歌。陽成院の后になった。


(作者)陽成院(ようぜいいん)。57代・陽成天皇(ようぜいてんのう)。56代・清和天皇(せいわてんのう)と藤原高子(二条后・にじょうのきさき)の皇子。

9才で即位したが、叔父の関白・藤原基経(藤原家最初の関白)に17才で退位させられ、光孝天皇(15「きみがため は」)に皇位を譲った。

20「わびぬれば」元良親王(もとよししんのう)の父。

(参考)
「うた恋」1巻

14. みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れそめにし 我ならなくに / 河原左大臣

(モジズリ)

14. みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れそめにし 我ならなくに / 河原左大臣(かわらのさだいじん)

(読み)みちのくの しのぶもじずり たれゆえに みだれそめにし われならなくに

(訳)陸奥(東北の東半分)・しのぶ地方のしのぶもじずりの乱れ模様のように、誰のせいで思いが乱れ始めてしまったのでしょう。私ではなくあなたのせいですよ。

(解説)
・信夫(しのぶ)地方・・今の福島県

・しのぶもじずり・・染め物


(作者)河原左大臣(かわらのさだいじん)。源融(みなもとのとおる)。

52代・嵯峨天皇の第12皇子。臣籍降下して源姓になる。河原院という大邸宅に塩釜の地を模して海水を汲む。光源氏のモデルの1人とも言われる。

宇治に別荘を作ったが、これが後の平等院となる。

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ネジバナの別名、モジズリは東北地方の信夫郡(しのぶぐん)で作られていた織物「信夫捩摺り(しのぶもじずり)」のよじれた模様と花のつき方が似ているところから。

15. 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ / 光孝天皇

15. 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ / 光孝天皇(こうこうてんのう)

(読み)きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ

(訳)あなたのために春の野にでかけて、若菜をつんでいる私の袖に雪がちらちらと降りかかっています。

(解説)
・『古今集』に載っている歌。光孝天皇がまだ時康親王と呼ばれる時代のもの。

・宮中では年のはじめに若菜つみが行なわれる。正月七日に若菜(春の七草)を食べると邪気が払われるとされた。


(作者)58代・光孝天皇。54代・仁明天皇の第3王子。59代宇多天皇の父。小さいころから和歌や学問が好きな皇子だった。55才で基経に推され、57代陽成帝(13)のあと即位したが、4年後に亡くなる。

 

16. 立ち別れ いなばの山の 峰におふる まつとし聞かば 今帰り来む / 中納言行平

16. 立ち別れ いなばの山の 峰におふる まつとし聞かば 今帰り来む / 中納言行平(ちゅうなごんゆきひら)

(読み)たちわかれ いなばのやまの みねにおうる まつとしきかば いまかえりこん

(訳)私はお別れして因幡の国(鳥取県)に行きます。稲葉山の峰に生える松のように皆さんが私の帰りを待つと聞いたならすぐに帰ってきましょう。

(解説)
・「因幡」と「稲葉山」、「待つ」と「松」がかかっている。

・いなくなった猫が帰ってくるおまじないとして読まれる。


(作者)中納言行平。在原行平(818~893)。在原業平(17「ちはやぶる」)の異母兄。

51代・平城天皇(へいぜいてんのう)の孫。阿保親王(あぼしんのう・平城天皇の第1皇子)の皇子。業平とともに皇族を離れた。

陽成天皇(13「つくばねの」)、光孝天皇(15「きみがため」)に仕えた有能な官吏でもあった。

38才で因幡(鳥取県)の国司、因幡守となった。任期は4~5年。京都に奨学院という学校を創設した。

 

17. ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは / 在原業平朝臣

17. ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは / 在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)

(読み)ちはやぶる かみよもきかず たつたがわ からくれないに みずくくるとは

(訳)神代の昔にも聞いたことがない。竜田川が紅葉を散り流して水を紅葉の絞り染めにしているとは。

(解説)
・昔の恋人の藤原高子(ふじわらのたかいこ)のために屏風を題材に詠んだ歌。

・高子は56代清和天皇の后(二条の后)で、57代陽成天皇の母。


(作者)在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)(825~880)。51代平城天皇の孫。阿保親王(あぼしんのう)の皇子。在原行平(16「立ち別れ」)の弟。六歌仙三十六歌仙の1人。

『伊勢物語』の主人公「昔男」のモデルとされる。情熱的な美男子としても有名。

近衛府(このえふ・官職の一つで皇族や高官の警備)。「在五中将(ざいごのちゅうじょう)」とも呼ばれる。

(参考)
・『応天の門』
・『超訳百人一首 うた恋い。』

 

18. 住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人めよくらむ / 藤原敏行朝臣

18. 住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人めよくらむ / 藤原敏行朝臣(ふじわらのとしゆきあそん)

(読み)すみのえの きしによるなみ よるさえや ゆめのかよいじ ひとめよくらん

(訳)住の江の岸に打ち寄せる波ではないが、夜に見る夢の中の通い路までも、どうしてあの人は人目を避けるのだろうか。

(解説)
・ひとめ・・人の目

・よくらむ・・「よく」は「避ける」。「らむ」は推量「~だろうか」

・女性の気持ちになって詠んだ歌

・人目を忍ぶ恋のもどかしさ

・住之江は大阪・住吉の海岸。松の名所で「待つ恋」によく詠まれる歌枕。


(作者)藤原敏行朝臣(ふじわらのとしゆきあそん)。在原業平(17「ちはやぶる」)とは妻同士が姉妹。書にも優れ、京都、神護寺の鐘銘が現存。59代宇多天皇に仕えた。

古今集
「秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」

(訳)秋が来たと、はっきりと目にはみえないけれど、風の音で(秋の到来に)はっと気づきました。

19. 難波潟 短き葦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや / 伊勢

19. 難波潟 短き葦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや / 伊勢(いせ)

(読み)なにわがた みじかきあしの ふしのまも あわでこのよを すぐしてよとや

(訳)あなたに会わずに一人で過ごせというの。そんなの無理。葦のふしのような短い間でもあなたに会いたい。


(作者)伊勢(いせ)。三十六歌仙の1人。父が伊勢守(三重県)。59代宇多天皇の中宮、温子に仕えた。歌集に『伊勢集』がある。

この歌は藤原仲平に送った返歌とされる。藤原仲平は、時の関白・藤原基経の次男、穏子(60代・醍醐天皇の中宮)の兄。

(※藤原基経の子は、長男・時平(菅原道真を左遷)、次男・仲平(伊勢に18「難波潟」の歌をもらう)、三男・忠平(性格温厚)。三平ともいわれる。)

伊勢は恋多き女性で、仲平の兄の藤原時平や、59代宇多天皇にも愛され、宇多天皇との間には皇子ももうけた。

後に宇多天皇の第四皇子・敦慶(あつよし)親王と結婚。娘の中務(なかつかさ)も歌人。

20. わびぬれば いまはた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ / 元良親王

20. わびぬれば いまはた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ / 元良親王(もとよししんのう)

(読み)わびぬれば いまはたおなじ なにわなる みをつくしても あわんとぞおもう

(訳)逢うことができず辛いので今となってはもうどうなっても同じこと。難波潟にある澪標のように、身を尽くしても逢いたいのです。

(解説)
・59代宇多上皇の后、京極御息所(きょうごくのみやすどころ)との人目を忍ぶ恋の歌。


(作者)元良親王(もとよししんのう)。57代陽成院(13「つくばねの」)の第一皇子だが皇位は継げなかった。「いみじき色好み」(プレイボーイ)、「一夜巡りの君」とも呼ばれた。

『大和物語』などに親王の逸話が伝わる。