百人一首note – ページ 7 – 百人一首の学びメモ

51. かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを / 藤原実方朝臣

(伊吹山)

51. かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを / 藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん)

(読み)かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ さしもしらじな もゆるおもいを

(訳)このように伝えることさえできないのですから、伊吹山のさしも草のようにそれほどのものとは知らないでしょうね。燃えるこの想いを。

(解説)
・さしも草・・ヨモギ。お灸に使われた。

・えやはいう・・言うことができようか。いやできない。

 


(作者)藤原実方朝臣。(ふじわらのさねかたあそん)。貞信公(藤原忠平)(26「小倉山」)のひ孫。66代一条天皇に仕えた。

光源氏のモデルの1人と言われている平安後期の色好み。(平安前期は在原業平。)

清少納言と恋仲?藤原行成と口論になり冠を叩きつけたため陸奥守に左遷。

 

52. 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なお恨めしき 朝ぼらけかな / 藤原道信朝臣

52. 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なお恨めしき 朝ぼらけかな / 藤原道信朝臣

あけぬれば くるるものとは しりながら なおうらめしき あさぼらけかな(ふじわらのみちのぶあそん)

(訳)夜が明けてしまえば日が暮れてまたあなたに会える。それを分かっていながらもやはり夜明けは恨めしい。

(解説)
・朝ぼらけ・・夜がほのぼの明けてくるころ

・雪の降った日に恋人のもとから帰ってきて詠んだ歌と『後拾遺集』にある。


(作者)藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん)。藤原為光の子。和歌に秀で、奥ゆかしい性格と伝わる。藤原公任らとも親しかった。藤原兼家の養子となる。23才の若さで亡くなる。

 

[藤原家家系図]

26. 藤原忠平(貞信公)
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藤原師輔
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45. 藤原伊尹(謙徳公)        藤原為光    藤原兼家
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50. 藤原義孝                ▶52. 藤原道信    藤原道長

 

53. 嘆きつつ 独りぬる夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る / 右大将道綱母

53.嘆きつつ 独りぬる夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る / 右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)

(読み)なげきつつ ひとりぬるよの あくるまは いかにひさしき ものとかはしる

(訳)あなたが来ないことを嘆きながら一人で寝る夜がどんなに長いか、きっとあなたはご存じないでしょうね。


(作者)右大将道綱母。(うだいしょうみちつなのはは)。『蜻蛉日記』作者。藤原兼家の第二夫人。

藤原兼家は、藤原家隆(兄)、藤原道長(弟)の父。

兄・藤原家隆は54「忘れじの」儀同三司母の夫。66代一条天皇の中宮・定子(ていし)の父。

 

54. 忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな / 儀同三司母

54. 忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな / 儀同三司母(ぎどうさんしのはは)

(読み)わすれじの ゆくすえまでは かたければ きょうをかぎりの いのちともがな

(訳)忘れないよとあなたがおっしゃった言葉がずっと続くとは思えないので今日を最後に死んでしまいたいのです。


(作者)儀同三司母(ぎどうさんしのはは)。高階貴子(たかしなのきし)。高階成忠の娘。関白・藤原道隆の妻。伊周(これちか)、隆家(たかいえ)、定子(ていし)の母。

儀同三司(大臣と同格位)は伊周の官位。和歌や漢文にすぐれ高内侍(こうのないし)と呼ばれた。

55. 滝の音は 耐えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ / 大納言公任

55. 滝の音は 耐えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ / 大納言公任(だいなごんきんとう)

(読み)たきのおとは たえてひさしく なりぬれど なこそながれて なおきこえけれ

(訳)滝の音は長い年月の間に枯れて聞こえなくなったけれど、名高い評判は今も伝わっているよ。

(解説)
・大覚寺(京都・嵐山)で詠まれた歌。200年前は嵯峨天皇の離宮だった。今は「名古曽滝跡(なこそのたきあと)」の碑が立っている。


(作者)大納言公任(だいなごんきんとう)。藤原公任として『大鏡』にも出てくる。その中で和歌、漢詩、管弦に優れた「三船の才(さんせんのさい)」と称された。

『和漢朗詠集』や『拾遺集』をまとめた。息子は藤原定頼(64「朝ぼらけ」

 

56. あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今一たびの 逢ふこともがな / 和泉式部

56. あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今一たびの 逢ふこともがな / 和泉式部(いずみしきぶ)

(読み)あらざらん このよのほかの おもいでに いまひとたびの おうこともがな

(訳)私はもうすぐこの世を去るでしょう。あの世への思い出にせめて今一度お会いしたいものです。

(解説)
・最初の夫、橘道貞を思って詠んだ歌と言われる。


(作者)
和泉式部(いずみしきぶ)。橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚。娘は小式部内侍(60「大江山」)。大江雅致(まさむね)の娘。中宮・彰子(しょうし)に仕えた。

恋多き女性と言われ、結婚していながら、63代冷泉天皇の皇子、為尊(ためたか)親王や、弟の敦道親王と愛し合ったと言われる。夫とは離婚、父からは勘当される。

『和泉式部日記』は敦道親王の死を悼む歌が124首詠まれている。

66代一条天皇の中宮・彰子に仕えた。藤原保昌と再婚。

 

 

57. めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな / 紫式部

57. めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな / 紫式部(むらさきしきぶ)

めぐりあいて みしやそれとも わかぬまに くもがくれにし よわのつきかな

(訳)久しぶりに巡り合い見たのかどうか分からないうちに雲間に隠れてしまった夜中の月のように、あなたはたちまち帰ってしまった。


(作者)
紫式部(むらさきしきぶ)。香子(かおりこ)。『源氏物語』の作者。藤原為時の娘。藤原信孝と結婚。娘は大弐三位(だいにのさんみ)58「有馬山」

夫と死別後、一条天皇の中宮、彰子(しょうし)に仕えた。

 

 

58. 有馬山 いなの笹原 風吹けば いでそよ人を わすれやはする / 大弐三位

58. 有馬山 いなの笹原 風吹けば いでそよ人を わすれやはする / 大弐三位(だいにのさんみ)

(読み)ありまやま いなのささはら かぜふけば いでそよひとを わすれやはする

(訳)有馬山から猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと音を立てます。そうよ、そうよ、どうして私があなたを忘れるでしょうか。


(作者)大弐三位(だいにのさんみ)。藤原賢子(かたこ)。母は紫式部・57「めぐりあいて」。後冷泉天皇の乳母となり従三位(じゅさんみ)に除せられた。

 

59. やすらはで 寝なましものを 小夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな / 赤染衛門

59. やすらはで 寝なましものを 小夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな / 赤染衛門(あかぞめえもん)

やすらわで ねなましものを さよふけて かたぶくまでの つきをみしかな

(訳)あなたが来ないと分かっていたら、ためらうことなく寝てしまったのに。あなたを待っているうちに夜がふけて西の空にかたむいて沈んでいく月をみたことです。

(解説)
・やすらはで・・ためらわないで。「やすらふ」は「ためらう」の意味。「で」は打消。

・「まし」は反実仮想。「もし~なら~なのに。」

・蔵人少将(くろうどのしょうしょう)藤原道隆に恋した妹の代わりに詠んだ歌。


(作者)
赤染衛門(あかぞめえもん)。父・赤染時用(ときもち)が衛門丞(えもんのじょう)のためこう呼ばれる。

道長の妻・倫子(りんし)や66代一条天皇の中宮・彰子(しょうし)に仕える。才女で優しい人柄であり、紫式部清少納言とも親しかったと言われる。『栄花物語』の作者。

夫は学者の大江匡衡(おおえのまさひら)。

60. 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立 / 小式部内侍

(京都・天橋立)

60. 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立 / 小式部内侍(こしきぶのないし)

(読み)おおえやま いくののみちの とおければ まだふみもみず あまのはしだて

(訳)大江山を超えて生野を通る道は遠いので、丹後国の天橋立に行ったこともありませんし、母からの手紙も見ていません。

(解説)
・藤原定頼(64「朝ぼらけ」が、からかったことに対してピシャリと答えた歌。


(作者)
小式部内侍(こしきぶのないし)。母は和泉式部56「あらざらん」。父は橘道貞。母とともに中宮彰子に仕えるが、25才で若くして病気で亡くなる。

天橋立は日本三景の一つ。(松島・厳島)